応挙の鶴の金屏風が売りに出てますが
http://www.christies.com/features/sep07/1876/overview.asp
いい絵ですね。私が知っている中では多分売りに出てる応挙の絵では過去最高の作品ではないかと。
気合の入った、描き込んでいて、構図も鶴の数がいる割にはくどくなくて、巧い。現物見たい。迫力あるだろうな〜
細部の羽の書き込みとか
内容もさることながら来歴もいいですね。
近衛家と三井家が所有していて
日本の美術館が買わないかな?
あと似たような価格帯で、東山魁夷の絵も売りに出てますね。
下手したら
http://www.my-auction.co.jp/nextbid.html?mode=list&search=y&p=12
3点似たような感じだから、売り主は同じかな
ちと思ったんだけどどっちの方が価値的にはあるでしょう。
勿論買主の好みではなく、投資として、
趣味的には応挙ですが、売れるのかなぁ?
個人的にはめちゃくちゃ買いの絵だと思いますが、
この辺が天井のなんでしょうか、やはりサイズ的に売るのが難しいので?
最近思うんだけど今回もそうだけどオークションに売りにだされるのは、掛け軸より屏風の方が多いね。
また屏風の方がいい絵が多いのに掛け軸より安いのは
やっぱり展示や保存に難があるんでしょうか
この絵も156.5 x 349.6cmが二枚とと相当大きいし普通の家では置けないからなのかな?また場所も選びそう
一方東山魁夷の方は家に掛けれそうだしなぁ、
普通に合いそうだし東山魁夷の方が売りやすいのかな?
でも画家として100年後も現在の価値を持ってるかと怪しい気がするなあ、好み的に、私なんかは戦後を代表する画家とは思うけど、
そこまでの値段の価値は無い気がしますが、どないなもんなでしょう。モノの価値って難しい・・・
http://www.christies.com/features/sep07/1876/overview.asp
いい絵ですね。私が知っている中では多分売りに出てる応挙の絵では過去最高の作品ではないかと。
気合の入った、描き込んでいて、構図も鶴の数がいる割にはくどくなくて、巧い。現物見たい。迫力あるだろうな〜
細部の羽の書き込みとか
内容もさることながら来歴もいいですね。
近衛家と三井家が所有していて
日本の美術館が買わないかな?
あと似たような価格帯で、東山魁夷の絵も売りに出てますね。
下手したら
http://www.my-auction.co.jp/nextbid.html?mode=list&search=y&p=12
3点似たような感じだから、売り主は同じかな
ちと思ったんだけどどっちの方が価値的にはあるでしょう。
勿論買主の好みではなく、投資として、
趣味的には応挙ですが、売れるのかなぁ?
個人的にはめちゃくちゃ買いの絵だと思いますが、
この辺が天井のなんでしょうか、やはりサイズ的に売るのが難しいので?
最近思うんだけど今回もそうだけどオークションに売りにだされるのは、掛け軸より屏風の方が多いね。
また屏風の方がいい絵が多いのに掛け軸より安いのは
やっぱり展示や保存に難があるんでしょうか
この絵も156.5 x 349.6cmが二枚とと相当大きいし普通の家では置けないからなのかな?また場所も選びそう
一方東山魁夷の方は家に掛けれそうだしなぁ、
普通に合いそうだし東山魁夷の方が売りやすいのかな?
でも画家として100年後も現在の価値を持ってるかと怪しい気がするなあ、好み的に、私なんかは戦後を代表する画家とは思うけど、
そこまでの値段の価値は無い気がしますが、どないなもんなでしょう。モノの価値って難しい・・・
数日前Yun Shoupingの画集を貰ったんで観てるんだけど、巧いね。
そのお陰でこの一〜二週間お手伝いをするハメになりましたが。
住所録を打ち込んだり写真を印刷したりと
この画集残念ながら中国製なんで、台北の故宮博物館の絵が無かったり解説がオール中国語だったり色々あるけど、でも絵を観るのには問題無い。
私はYun Shoupingと言えば牡丹や菊の絵だろうと
思ってたけど、風景画、特に画冊に描いてる。そんなに大きくないサイズのが良い。抜群の画面構成してます。小さいものだけど奥行きや広がり。空気を感じられて
あと筆の運びのリズムが凄く良い。スカッとしてて。
池大雅、与謝蕪村の十便十宜なんかと同じ様なものを感じました。
幅広く作品観て、彼の絵は切れ味はよくないと思うけど、あと激しさといったものは無いと思う。
でも、品よく、暗くなくて瀟洒な感じがして非常に良い。
描いてるテーマ、(花卉(牡丹、菊、蓮、海棠など)、山水、
風景、魚)と筆の幅は広くないかもしれないけど。
それはベストのものを見つけたので、構図や技法の中で精錬させる事を選んだためではないでしょうか
その道は底が見えないくらい深そう。何描いても、とりあえず巧い。あと字も巧い。
特に崩しかた、ものの捉え方は独自のものがあると思います。
技法的に米法などを模倣するだけでなくちゃんと噛み砕いて自分流にアレンジして
またそのアレンジの仕方が抜群で強烈な個性の持ち主だと思う。
絵の穏やかさとは別で、この辺は非常に激しいと思います。
Xu Weiの蓮なんかの影響受けてると思うので、
両者の絵を並べて観ると似てるようであり両者の個性が判って面白いと思います。
また彼の絵は非常に美しく手の込んだ、現物の美しさを感じる。
写真とは違うけど、でも写実性がある
一方で写意と言ったらいいのかな?写実性とはまったく違う。
描こうとするものから作者の自分のに観えるもの、
感性や感覚で描こうとする。そういう二面性が絵にあると思います。またそのバランスが絶妙の塩梅で、絵に現れてると思います。
その部分が彼の売りというか、良さではないでしょうか?
来月泉屋博古館でやる文人の世界展で彼の絵展示されるかな?
期待して行ってみようっと
京博も持ってるようですが、観た事ないです。
そのお陰でこの一〜二週間お手伝いをするハメになりましたが。
住所録を打ち込んだり写真を印刷したりと
この画集残念ながら中国製なんで、台北の故宮博物館の絵が無かったり解説がオール中国語だったり色々あるけど、でも絵を観るのには問題無い。
私はYun Shoupingと言えば牡丹や菊の絵だろうと
思ってたけど、風景画、特に画冊に描いてる。そんなに大きくないサイズのが良い。抜群の画面構成してます。小さいものだけど奥行きや広がり。空気を感じられて
あと筆の運びのリズムが凄く良い。スカッとしてて。
池大雅、与謝蕪村の十便十宜なんかと同じ様なものを感じました。
幅広く作品観て、彼の絵は切れ味はよくないと思うけど、あと激しさといったものは無いと思う。
でも、品よく、暗くなくて瀟洒な感じがして非常に良い。
描いてるテーマ、(花卉(牡丹、菊、蓮、海棠など)、山水、
風景、魚)と筆の幅は広くないかもしれないけど。
それはベストのものを見つけたので、構図や技法の中で精錬させる事を選んだためではないでしょうか
その道は底が見えないくらい深そう。何描いても、とりあえず巧い。あと字も巧い。
特に崩しかた、ものの捉え方は独自のものがあると思います。
技法的に米法などを模倣するだけでなくちゃんと噛み砕いて自分流にアレンジして
またそのアレンジの仕方が抜群で強烈な個性の持ち主だと思う。
絵の穏やかさとは別で、この辺は非常に激しいと思います。
Xu Weiの蓮なんかの影響受けてると思うので、
両者の絵を並べて観ると似てるようであり両者の個性が判って面白いと思います。
また彼の絵は非常に美しく手の込んだ、現物の美しさを感じる。
写真とは違うけど、でも写実性がある
一方で写意と言ったらいいのかな?写実性とはまったく違う。
描こうとするものから作者の自分のに観えるもの、
感性や感覚で描こうとする。そういう二面性が絵にあると思います。またそのバランスが絶妙の塩梅で、絵に現れてると思います。
その部分が彼の売りというか、良さではないでしょうか?
来月泉屋博古館でやる文人の世界展で彼の絵展示されるかな?
期待して行ってみようっと
京博も持ってるようですが、観た事ないです。
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最近気付いたけど、私の中にヨーロッパの絵というのはまったく
無いね。
日本の画家や中国の画家は思い浮かんでも
超有名な画家、ベラスケス、ブリューゲル、ターナー、
ドラクロア、コンスタブル、レンブラントやカラヴァッジョ、
一部のルネサンス期の有名人や印象派の画家、
近代の画家というのは思い浮かんでも(でも名前だけの場合も)
じゃあ、ルネサンス期の有名画家以外の
例えば風景画、宗教絵画、肖像画の各々のジャンルごとの絵を
観て作家ごとに区別がつくかと言うと判らん。
オランダ絵画、ロシア絵画、スペインの絶頂期や、移動祝祭日の時代のパリの画家も同じく
また画家の名前では判っても恥ずかしい事に絵では判らん。
それらの絵の実物を観た事あるかと言われれば無いし。
また同時代の絵共通点や、その人の個性なのかというのも判らん。
以下直接の絵から離れますが
また同時代に国が違っての画家の比較や、流行、関連性、上下左右関係。画家におけるその国での教育の仕方や、社会的地位、
また絵が何故教会、王侯貴族の付属から絵として独立するのか
(ギルド制度とも関係あるのかな?)
それらが崩壊した場合次はどういう育成機関が出来るのか、
若しくは出来ないのか。
あとヨーロッパの画家、特に古い絵には影があるのに、
日本の油絵には何故影が無いのか、色彩的暗いという意味では無く
そういう疑問も解決したい。
この辺も含めて今後勉強していきたいです。
でもこれをやっちゃうと中途半端なアジア圏の絵の知識消えちゃいだそうだしな。おお悲しいアホな脳みそ、
また資料集めでも時間かかりそう。
というか日本で実物の絵を観るというのが不可能な気がしますが・・・
本日の一言 Christiesでラファエロの絵売りに出てるね。£10,000,000-15,000,000と凄い強烈な値段ですが
というかラファエロって個人で買えると言うことに驚き。
あとラファエロと比べると思うのですが、
印象派の絵や近代の絵はやっぱり高いですね。恐るべし
需要関係なんでしょうか?ラファエロという名前は凄いと思っても絵の内容に興味持つかと言われれば
また別問題?
日本人が競り落としてどこかで展示されないかな?
無いね。
日本の画家や中国の画家は思い浮かんでも
超有名な画家、ベラスケス、ブリューゲル、ターナー、
ドラクロア、コンスタブル、レンブラントやカラヴァッジョ、
一部のルネサンス期の有名人や印象派の画家、
近代の画家というのは思い浮かんでも(でも名前だけの場合も)
じゃあ、ルネサンス期の有名画家以外の
例えば風景画、宗教絵画、肖像画の各々のジャンルごとの絵を
観て作家ごとに区別がつくかと言うと判らん。
オランダ絵画、ロシア絵画、スペインの絶頂期や、移動祝祭日の時代のパリの画家も同じく
また画家の名前では判っても恥ずかしい事に絵では判らん。
それらの絵の実物を観た事あるかと言われれば無いし。
また同時代の絵共通点や、その人の個性なのかというのも判らん。
以下直接の絵から離れますが
また同時代に国が違っての画家の比較や、流行、関連性、上下左右関係。画家におけるその国での教育の仕方や、社会的地位、
また絵が何故教会、王侯貴族の付属から絵として独立するのか
(ギルド制度とも関係あるのかな?)
それらが崩壊した場合次はどういう育成機関が出来るのか、
若しくは出来ないのか。
あとヨーロッパの画家、特に古い絵には影があるのに、
日本の油絵には何故影が無いのか、色彩的暗いという意味では無く
そういう疑問も解決したい。
この辺も含めて今後勉強していきたいです。
でもこれをやっちゃうと中途半端なアジア圏の絵の知識消えちゃいだそうだしな。おお悲しいアホな脳みそ、
また資料集めでも時間かかりそう。
というか日本で実物の絵を観るというのが不可能な気がしますが・・・
本日の一言 Christiesでラファエロの絵売りに出てるね。£10,000,000-15,000,000と凄い強烈な値段ですが
というかラファエロって個人で買えると言うことに驚き。
あとラファエロと比べると思うのですが、
印象派の絵や近代の絵はやっぱり高いですね。恐るべし
需要関係なんでしょうか?ラファエロという名前は凄いと思っても絵の内容に興味持つかと言われれば
また別問題?
日本人が競り落としてどこかで展示されないかな?
クラシコがもうじき始まるしかし何故か眠れず徹夜状態で眠い。
試合終るまで起きてる自信が無い。テンションあげるために、
文書くぞ、今後勉強したいこと覚書記念と言うことで以下の文
最近茶道具の本を読んで古田織部は理屈屋だったいうのを知ったのですが、使ってる茶道具と反しやっぱり個性派だからこそ理屈が必要だったのでしょうか?古田織部が使っていた
志野焼や織部焼や伊賀焼って焼き物に描いてる絵の斬新さもありますが、(伊賀焼きは描かないけど)
それよりもまず器として形として変じゃないですが、
普通に考えるなら、別にそのまま焼けばいい物を
若しくは完成されたものを作為的に削ったり歪めたり
ヒビを入れてみたりしてこれって普通じゃない。
(青磁、白磁、天目なんかの完成された美と比べると)
そのままでは理解できない。だから理屈が必要だったのではないでしょうか?
絵でいえば印象派(には自然主義派)やキュビスム、
シュルレアリスムには後ろに理論がついていますよね。
近代の日本画には、岡倉天心やフェノロサが。民芸には柳宗悦や白樺派や理論が先天、後天どちらにしろ
これも似た様な理由で判らないから理屈が欲しかった気がするんですよね。はっちゃけた。個性派のままでは理解されないから、
それが生まれるにあたりその時代の流行や思想を反映してるという要素もあるとあると思いますが織部、志野の焼き物を見てると狩野永徳、山楽の絵が思い浮かぶので、桃山文化の名残なのかなと。
また遠州好みのものが狩野探幽の絵と何処となく共通点感じる様に
書院好みと言いましょうか、又安定感を感じる辺り等
多分ね。見た瞬間に一発で判るものって理屈要らないと思うんですよ。より深く理解するためには必要だと思うけど表面的に、
普通に見る場合には
見ておお巧いな、綺麗、感嘆、それで終わり、
(例えば気合の入った応挙の絵とかドラクロワとかルーベンスとか)
でも見た瞬間判らんものって、判らんなら、それでいいやと言う
気持ちがある一方。もう一つこいつが何なのか知りたいという気持ちが起こる。そこに理屈が働くんじゃないでしょうか。
多分見て判らん、理屈に頼る。理屈を得ると見て判らんでも
その作品、周囲の理屈に沿って考える。
なんとなく理解できた気がする。
本当に理解できたかどうかは判らんけど
(理屈は理解できても作品を理解できるどうかは、
また別な気がしますが例としては音楽理論が判っても判らん音楽があったり、音楽理論が理解できなくても音楽は楽しめたりと)
理屈が広く認められると、今までに無いモノだから、人気が出る。また権力と結びつく茶道具屋さん的には高値がつく、作品が売り易いだから理屈屋だったのではと思います。美意識どうのこうのもあると思うけど。じゃあどうしてこの時代にこういうものが必要だったのかというと、
戦いが多かった世の中殺伐とした世の中だったから、
華やかさを追求したかったのでは?
千利休の宗教ちっくな茶とは別路線で
(千利休の茶がある種宗教だと思うのは思い過ごしかな?)
現世利益追求型でそれの武家の場合が古田織部で公卿好みとなると森宗和になるのでは?あるいは室町時代へのノスタルジー、
若しくは進化系では?
残念ですが知識が無いのとキックオフしたのでここまで
本日の一言 いつの世から茶は男のものでなく女性メインになったんだろう。そういうの総括してる本ないかな?社会史的に書いてる
試合終るまで起きてる自信が無い。テンションあげるために、
文書くぞ、今後勉強したいこと覚書記念と言うことで以下の文
最近茶道具の本を読んで古田織部は理屈屋だったいうのを知ったのですが、使ってる茶道具と反しやっぱり個性派だからこそ理屈が必要だったのでしょうか?古田織部が使っていた
志野焼や織部焼や伊賀焼って焼き物に描いてる絵の斬新さもありますが、(伊賀焼きは描かないけど)
それよりもまず器として形として変じゃないですが、
普通に考えるなら、別にそのまま焼けばいい物を
若しくは完成されたものを作為的に削ったり歪めたり
ヒビを入れてみたりしてこれって普通じゃない。
(青磁、白磁、天目なんかの完成された美と比べると)
そのままでは理解できない。だから理屈が必要だったのではないでしょうか?
絵でいえば印象派(には自然主義派)やキュビスム、
シュルレアリスムには後ろに理論がついていますよね。
近代の日本画には、岡倉天心やフェノロサが。民芸には柳宗悦や白樺派や理論が先天、後天どちらにしろ
これも似た様な理由で判らないから理屈が欲しかった気がするんですよね。はっちゃけた。個性派のままでは理解されないから、
それが生まれるにあたりその時代の流行や思想を反映してるという要素もあるとあると思いますが織部、志野の焼き物を見てると狩野永徳、山楽の絵が思い浮かぶので、桃山文化の名残なのかなと。
また遠州好みのものが狩野探幽の絵と何処となく共通点感じる様に
書院好みと言いましょうか、又安定感を感じる辺り等
多分ね。見た瞬間に一発で判るものって理屈要らないと思うんですよ。より深く理解するためには必要だと思うけど表面的に、
普通に見る場合には
見ておお巧いな、綺麗、感嘆、それで終わり、
(例えば気合の入った応挙の絵とかドラクロワとかルーベンスとか)
でも見た瞬間判らんものって、判らんなら、それでいいやと言う
気持ちがある一方。もう一つこいつが何なのか知りたいという気持ちが起こる。そこに理屈が働くんじゃないでしょうか。
多分見て判らん、理屈に頼る。理屈を得ると見て判らんでも
その作品、周囲の理屈に沿って考える。
なんとなく理解できた気がする。
本当に理解できたかどうかは判らんけど
(理屈は理解できても作品を理解できるどうかは、
また別な気がしますが例としては音楽理論が判っても判らん音楽があったり、音楽理論が理解できなくても音楽は楽しめたりと)
理屈が広く認められると、今までに無いモノだから、人気が出る。また権力と結びつく茶道具屋さん的には高値がつく、作品が売り易いだから理屈屋だったのではと思います。美意識どうのこうのもあると思うけど。じゃあどうしてこの時代にこういうものが必要だったのかというと、
戦いが多かった世の中殺伐とした世の中だったから、
華やかさを追求したかったのでは?
千利休の宗教ちっくな茶とは別路線で
(千利休の茶がある種宗教だと思うのは思い過ごしかな?)
現世利益追求型でそれの武家の場合が古田織部で公卿好みとなると森宗和になるのでは?あるいは室町時代へのノスタルジー、
若しくは進化系では?
残念ですが知識が無いのとキックオフしたのでここまで
本日の一言 いつの世から茶は男のものでなく女性メインになったんだろう。そういうの総括してる本ないかな?社会史的に書いてる
Christie’sで日本物のオークションをしてるなと思い
なんとなく見てたら、落款、書名の無い作品ですが長谷川等伯の
松林図が売りに出ててビビッた。
東京国立博物館の松林図と似ていますが別らしい。
題名がPine Trees in Moonlightだから考えると京都国立博物館委託の個人蔵の月下松林図屏風か?というか、この絵どこが何故、
売りに出したんだろう?寺関係?相続税で個人が売りに出したのかな?それとも明治以降に日本から流出した絵なのかな?
どちらにしてもこれって所謂美術品の流出ですよね。
いいんでしょうか、どっか日本の美術館買わないかな?
東博とかだったら国宝の松林図とペアで持ったら面白い企画展とかも出来るので、若し値段が2〜3億なら企画展で十分黒字になると思いますが、(長谷川等伯は画風に華が欠けるから厳しい?)
あと長谷川等伯の研究も進みますし・・・
今の日本の国立博物館、美術館は金無いから。無理かな?
こんな絵が国外流出したら日本には戻ってこない気がしますが
2、3日前イギリスでターナーの絵がどこぞの美術館に委託されてた品があってそれを持ち主がオークションに売りに出して、
美術館もオークションで購入しようと思ったけど
ターナーの絵が値段がバンバン跳ね上がり買えず、
海外の投資ファンドが買っちゃたから、
買い戻すために、美術館が、ターナーの絵を小さく網目状に区切って、一区画あたり、いくらかで売り出し、買った人はその面積分
オーナーになりその売上金で買い戻したいというのを、やっていましたがそういうの出来ないのかな?したらいくらか寄付するのに?
なんとなく見てたら、落款、書名の無い作品ですが長谷川等伯の
松林図が売りに出ててビビッた。
東京国立博物館の松林図と似ていますが別らしい。
題名がPine Trees in Moonlightだから考えると京都国立博物館委託の個人蔵の月下松林図屏風か?というか、この絵どこが何故、
売りに出したんだろう?寺関係?相続税で個人が売りに出したのかな?それとも明治以降に日本から流出した絵なのかな?
どちらにしてもこれって所謂美術品の流出ですよね。
いいんでしょうか、どっか日本の美術館買わないかな?
東博とかだったら国宝の松林図とペアで持ったら面白い企画展とかも出来るので、若し値段が2〜3億なら企画展で十分黒字になると思いますが、(長谷川等伯は画風に華が欠けるから厳しい?)
あと長谷川等伯の研究も進みますし・・・
今の日本の国立博物館、美術館は金無いから。無理かな?
こんな絵が国外流出したら日本には戻ってこない気がしますが
2、3日前イギリスでターナーの絵がどこぞの美術館に委託されてた品があってそれを持ち主がオークションに売りに出して、
美術館もオークションで購入しようと思ったけど
ターナーの絵が値段がバンバン跳ね上がり買えず、
海外の投資ファンドが買っちゃたから、
買い戻すために、美術館が、ターナーの絵を小さく網目状に区切って、一区画あたり、いくらかで売り出し、買った人はその面積分
オーナーになりその売上金で買い戻したいというのを、やっていましたがそういうの出来ないのかな?したらいくらか寄付するのに?
あまり大きな声では言えませんが音楽でも絵でも
何でもいいですが作品観て作者の精神性がどうのこうのと言う
話がありますが、私この手の話は8割がた信じてません。
まったくそいうのがゼロとは言いませんが、
基本的にはそこにある作品からは作者の精神性なんか
わかるかちゅうねん。
そこにある作品がどういう作品であるかと言うのは感じられても
主観的ですが作品がシャープか、とろくさいか、整ってるとか、
歪みがあるとか、美しい、美しくない、絵が暗い、明るいなど
また情報が与えられ例えば師匠筋は誰とか、
この人はこういう宗教に属してたんだとか、
この時、病気してたんだとか、息子さん無くしたんだとか、
金持ちだったとか貧乏だったとか
その時代にどんな流行があったとか、社会情勢どんなだったとか
そういうので、だからこういう作品を作ったんだな、
若しくはそんなものに影響されず作品作ってるなと
推し量ることは出来ても作品から作者の精神性、
人格者だっとか聖人だったとか云々と言うのは違うと思う
実際に作者と付き合ってもその精神性なんか判らんと
私は思うけど若しも作品があって作者の精神性云々が出てくる場合大概の場合金や商業が絡んでて、ろくな事がない気がしますが、
特に作品観る前から精神性がどうのこうの言うのは
その場合が多い様な・・・
それと良い人格=良い作品とも違う気がしますし、
また人格面、精神的破綻=良い作品とも違う気がします。
モノを観る時は単純に作品を評価するにはそこにある作品だけで評価したら、ダメなんでしょうか。
予備情報与えられてより深く理解する事もありますが
また予備情報に価値がある場合も誰が持ってた、文献資料に載ってるなど、でもそれは値段や学術的な問題であって作品の良し悪しとは関係ない様な・・・・
まずは目の前のものが物言うじゃないんでしょうか。
その時の気分や見慣れてるかどうかの観る側の問題もありますが。
私は他のものでは図れない気がしますが、どないなんでしょう
何でもいいですが作品観て作者の精神性がどうのこうのと言う
話がありますが、私この手の話は8割がた信じてません。
まったくそいうのがゼロとは言いませんが、
基本的にはそこにある作品からは作者の精神性なんか
わかるかちゅうねん。
そこにある作品がどういう作品であるかと言うのは感じられても
主観的ですが作品がシャープか、とろくさいか、整ってるとか、
歪みがあるとか、美しい、美しくない、絵が暗い、明るいなど
また情報が与えられ例えば師匠筋は誰とか、
この人はこういう宗教に属してたんだとか、
この時、病気してたんだとか、息子さん無くしたんだとか、
金持ちだったとか貧乏だったとか
その時代にどんな流行があったとか、社会情勢どんなだったとか
そういうので、だからこういう作品を作ったんだな、
若しくはそんなものに影響されず作品作ってるなと
推し量ることは出来ても作品から作者の精神性、
人格者だっとか聖人だったとか云々と言うのは違うと思う
実際に作者と付き合ってもその精神性なんか判らんと
私は思うけど若しも作品があって作者の精神性云々が出てくる場合大概の場合金や商業が絡んでて、ろくな事がない気がしますが、
特に作品観る前から精神性がどうのこうの言うのは
その場合が多い様な・・・
それと良い人格=良い作品とも違う気がしますし、
また人格面、精神的破綻=良い作品とも違う気がします。
モノを観る時は単純に作品を評価するにはそこにある作品だけで評価したら、ダメなんでしょうか。
予備情報与えられてより深く理解する事もありますが
また予備情報に価値がある場合も誰が持ってた、文献資料に載ってるなど、でもそれは値段や学術的な問題であって作品の良し悪しとは関係ない様な・・・・
まずは目の前のものが物言うじゃないんでしょうか。
その時の気分や見慣れてるかどうかの観る側の問題もありますが。
私は他のものでは図れない気がしますが、どないなんでしょう
実は楽茶碗がまったく判らん。
長次郎とか本阿弥光悦の茶碗を観てもわからない。
(小堀遠州や古田織部、煎茶ならまだ判る気がしますが
小堀遠州なら庭観て、古田織部なら織部焼き観て、美意識を感じますが)
よく侘・寂とか言うけど
茶碗を観てると結構生々しくて全然枯れてない気がするんですが、
あと極度に無機質に感じるというか・・・
これは美術館で観るからそう感じるのかな?
茶室で千利休ブランドに囲まれて茶碗として使うと
また印象が変わるのかな?でもそんな機会は一生無い気がするしな・・・(細見美術館の2万ぐらい必要な茶会に行けば機会ありか?)
それとも私の千利休のイメージが結構黒くて生々しい持つのが
原因?権力欲が強そうで自分で反唐物のブランド作って美味しい
商売してるというのがあるから生々しく感じるのかな?
というかそもそも発想が間違っていて生々しく感じが
侘・寂なんでしょうか、
良く言えば生を感じる。悪く言えば生々しい。
この辺織部や金森宗和なんかの方が素直にある程度の華やかさを
認めいて無理に排除しようと捻くれてなくて好きだけど私は・・・
う〜ん。わからん、謎な文化だ。私の感性が鈍い?
それと千利休の唐物万歳の世の中を変えようと
粗製や雑器をわび茶にしようするも後代
それらが昔の唐物の様にブランド化しちゃう所も判らん。
本末転倒ってこれの事?それとも千利休は意識的に狙っていた?
ある種民芸運動と同じ匂いがするのも気のせい?
当事者的にはブランド新しく作れて成功?
それともブランド作って失敗?
果たしてどっち?
この辺が金の匂いがしてイマイチ、わび茶がわからん原因?
それともそういう風に見える私が世俗に汚れてるだけ?
長次郎とか本阿弥光悦の茶碗を観てもわからない。
(小堀遠州や古田織部、煎茶ならまだ判る気がしますが
小堀遠州なら庭観て、古田織部なら織部焼き観て、美意識を感じますが)
よく侘・寂とか言うけど
茶碗を観てると結構生々しくて全然枯れてない気がするんですが、
あと極度に無機質に感じるというか・・・
これは美術館で観るからそう感じるのかな?
茶室で千利休ブランドに囲まれて茶碗として使うと
また印象が変わるのかな?でもそんな機会は一生無い気がするしな・・・(細見美術館の2万ぐらい必要な茶会に行けば機会ありか?)
それとも私の千利休のイメージが結構黒くて生々しい持つのが
原因?権力欲が強そうで自分で反唐物のブランド作って美味しい
商売してるというのがあるから生々しく感じるのかな?
というかそもそも発想が間違っていて生々しく感じが
侘・寂なんでしょうか、
良く言えば生を感じる。悪く言えば生々しい。
この辺織部や金森宗和なんかの方が素直にある程度の華やかさを
認めいて無理に排除しようと捻くれてなくて好きだけど私は・・・
う〜ん。わからん、謎な文化だ。私の感性が鈍い?
それと千利休の唐物万歳の世の中を変えようと
粗製や雑器をわび茶にしようするも後代
それらが昔の唐物の様にブランド化しちゃう所も判らん。
本末転倒ってこれの事?それとも千利休は意識的に狙っていた?
ある種民芸運動と同じ匂いがするのも気のせい?
当事者的にはブランド新しく作れて成功?
それともブランド作って失敗?
果たしてどっち?
この辺が金の匂いがしてイマイチ、わび茶がわからん原因?
それともそういう風に見える私が世俗に汚れてるだけ?
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個人的しゃべりの覚書
2006年11月18日 お絵描きについて絵より陶磁器の方が好みは別として
完成度が作品数が多い気がするのは何故なんだろう。
(陶磁器分野で私の目が肥えてないだけ?)
例えば陶器磁器なら私なら、歴代の中国の官窯の青磁やら色絵、
豆彩、天目茶碗、朝鮮の青磁、白磁、井戸茶碗、東南アジア製の
茶壷、中東地域のラスター彩、ヨーロッパ製の陶磁器
日本なら京焼の奥田頴川と門下生、織部焼き、柿右衛門、備前焼、九谷焼、鍋島とか好き嫌いは別としてどれも完成度が非常に高いと思えますが、形の美しさ、色彩の美しさ、模様の美しさなど
何を持って完成度が高いとするはそれぞれですが、
でもとりあえず完成度高さ、ある種の共通した美しさを持つような気がするのですが、絵だとそうはいかないと思うんですよ。
やれ構図が気に喰わん、筆致が気に喰わん、色彩が気に喰わんと
また絵は陶磁器ほど共通した美しさというモノが無いとも思います。
例えば陶磁器なら造形の美しさというのは東西問わず共通点がある様な気がしますし
磁器なら色絵の元の白い部分の美しさ、描いてあるモノの美しさなども
絵にはそういうモノが無いですよね。
もうアジア圏の中でも難しいですし
東西問わずなんていのは殆ど夢の様な話ですよね。
この辺は昔から貿易で色々向こうに行ってるから
中国や日本の焼き物がヨーロッパ圏の陶磁器に影響与えるとか
地域の技術伝播とか、
陶磁器はどんなに高級品であっても
日常の延長線生活にあるものだから数作ってるから
それだけ作品数が多いのとか、絵は陶磁器ほど量産化できないから残ってないのでしょうか、
あと紙の方が耐久性の問題とか色々あると思いますが
でもそういう問題だけじゃくて、根本的な問題がある様な気がするんですよ。
それは三次元と二次元の違い、いまさらかいと言われるかも知れませんが。
やっぱり絵の方が難しいと言いましょうか、表現に制限があると思います。ただ難しい=芸術性が優れているではないと思います。
差があるとすれば非日常性では?
陶磁器なら作者の技術的な問題はあると思いますが形を作るのは
やはり容易な気がします。ただ色の表現となると絵より困難と思いますが、焼くという偶然性が加わるので
二次元に三次元のモノを描こうとするのはやはり技術的により複雑なのではないかと
勿論世の中には三次元をあまり表現的に重要視しない絵もありますが四次元を表現しようとする絵や平面的に描こうとする絵など
まず絵は造形的に美しさを表現することが出来ない、
陶磁器なら立体感、奥行きをそのまま表現出来ますが、
作者の技術の問題はあるとはいえ絵となるとそういう三次元のものをそのまま表現できない、
三次元を一度二次元に置き換える必要がある。そのせいで失っているものがあると思います。絵には
例えば応挙やダリなんかは眼で観て判るように技法的に写実な作品を描いてると思いますが、
(両者は絵画思想、表現方法は違いますが二次元の中で三次元を表現してる絵)
絵の中に現実の風景を持ち込んだ様な、
でもそういう絵は技術的な高さを感じる一方で
絵として、非常につまらない作品も多い気がします。
図鑑に載ってる絵というか、絵が死んでるというか、
ユーモアが足りないというか。まじめと言うか。
気韻生動でないというか。
円山応挙の絵の評価が高いのは応挙の代だけに限り後の派として
普及するのは、与謝蕪村の情緒的な画風の影響を受けた呉春や
松村景文の四条派やある種過剰に野性味や、装飾性の増す岸派や
森派になるのが物語っているのではないでしょうか
それでも応挙が彼がそのジャンルの第一人者というのと卓越した
技術を持ってるからではないでしょうか
また近代の初期の東洋的な表現と西洋的な表現を強引に融合させた絵が評価的にもう少し後の時代の絵と比べると落ちるのにも関係があるのでは?
でもかと言って絵に三次元的な要素を持ち込むなというと
大きな間違いな気がします。ミケランジェロの様に彫刻、絵画両方やられる方や青木木米は画、陶芸両方やるし板谷波山などには絵画的な要素があると思うから。
ようは彫刻や陶芸の三次元的なものをそのまま絵に持ち込むというのは不可能で絵で三次元を表現するためには二次元における三次元的表現がが必要なのでは?
その視点を持つと西洋の遠近法の影響を受ける以前の東洋の絵をを観ても三次元があるのではないかと没骨法的な絵、ペルシャ系の絵にもそういう風に観えなくても、当時としては3次元を表現しようとしているのではないかと
以下ジャンルが中国系の絵の話になりますが、
一見すると鈎勒法と比べ極めて平面的にみえますが、
上手な人の絵にはその平面的な世界にも確かに3次元があるのではないかと。墨の濃淡や、絵の具の抑揚や筆の掠れ具合にも、
西洋的な3次元の捉え方ではないですが
東洋的な三遠(中国画遠近法)の考え方も
現代的に観たら3次元を追求してる絵には観えませんが、
でも例えば画面全体ではなく局部的にですが
董其昌の岩なんかには三遠から観てもおかしくない、
また現代的に観てもおかしくない風に描かれてる気がします。
皺法で立体感を出すように努力して
米フツの点描の様な描写にもそれは見出せると思います。
日本画なら時代がポンと飛んでしまいますが、
福田平八郎や平面的なんだけど絵の具で立体感を出してる絵なんかにもそれと小野竹喬の風景画なんかにも三遠の方に則った絵がある様な気がします。
よく観ると米フツなんかの絵がイメージ出来る気がしますが、私の思い込みでしょうか。
あと竹内栖鳳の中国のスケッチの作品なんかにもそういう要素があるのではないでしょうか
三次元に拘るのであれば忠実に三次元を表現した絵は技術的には高くても概してつまらない絵が多いので
その辺の工夫も必要なのでは?二次元を生かした要素が、それ以外のとの組み合わせが
三次元の再現技術以外の要素が
例えば没骨法、米フツ法、三遠、自然主義、印象派、抽象、即興性
情緒、情緒性の排除、レンブラントの光、葛飾北斎の波、他多数の様なモノがただこれらを忠実に再現するだけでは、
技術的には高くてもそれは過去の模倣に過ぎず、絵として観る為には何かと組み合わせて再構成して作らないと絵とは呼べないのでは?
これは逆説的に陶磁器にも当てはまるのでは?
画工的な要素があっても、
現在過去より窯や釉薬の技術が進歩しても
デザイン面で過去の美しさや色彩を超えることが不可能であったり、何かが足りないと感じるのと同じでは?
例えば京薩摩など、磁器に画を再現しどんなに緻密に描いていて
技術的な高さは感じても、
果たして陶磁器と面白いかと問われると疑問で
板谷波山や楽茶碗の方が陶磁器的には面白い、
若しくは仁阿弥道八や鍋島の方が美しいと思うのと同じでは
例えば造形的に、釉薬の美しさなど
以上しゃべった覚書でした
本日の一言 尾形乾山って所謂琳派じゃないですか、
じゃあ野々村仁清はどうなんでしょう。
琳派じゃないのかな?時代的には尾形兄弟と被るし作風も近いし琳派っぽいと思うけど
世間的に琳派とは呼びませんよね。また野々村仁清より巧く仁清っぽいのを作る高橋道八なんかも琳派とは呼びませんよね。
和物なんていう風に呼びませよね。なぜなんでしょう?
作風はかなり琳派っぽいものを作ってると思うのですが、というか影響を受けてると思うのですが
琳派と仁清との直接の繋がりは判りませんが、
あれば直接の影響だし無ければ時代的特色だと思うのですが
これって絵で言うところの大和絵とは別に土佐派、巨勢派がある様なものなんでしょうか。
完成度が作品数が多い気がするのは何故なんだろう。
(陶磁器分野で私の目が肥えてないだけ?)
例えば陶器磁器なら私なら、歴代の中国の官窯の青磁やら色絵、
豆彩、天目茶碗、朝鮮の青磁、白磁、井戸茶碗、東南アジア製の
茶壷、中東地域のラスター彩、ヨーロッパ製の陶磁器
日本なら京焼の奥田頴川と門下生、織部焼き、柿右衛門、備前焼、九谷焼、鍋島とか好き嫌いは別としてどれも完成度が非常に高いと思えますが、形の美しさ、色彩の美しさ、模様の美しさなど
何を持って完成度が高いとするはそれぞれですが、
でもとりあえず完成度高さ、ある種の共通した美しさを持つような気がするのですが、絵だとそうはいかないと思うんですよ。
やれ構図が気に喰わん、筆致が気に喰わん、色彩が気に喰わんと
また絵は陶磁器ほど共通した美しさというモノが無いとも思います。
例えば陶磁器なら造形の美しさというのは東西問わず共通点がある様な気がしますし
磁器なら色絵の元の白い部分の美しさ、描いてあるモノの美しさなども
絵にはそういうモノが無いですよね。
もうアジア圏の中でも難しいですし
東西問わずなんていのは殆ど夢の様な話ですよね。
この辺は昔から貿易で色々向こうに行ってるから
中国や日本の焼き物がヨーロッパ圏の陶磁器に影響与えるとか
地域の技術伝播とか、
陶磁器はどんなに高級品であっても
日常の延長線生活にあるものだから数作ってるから
それだけ作品数が多いのとか、絵は陶磁器ほど量産化できないから残ってないのでしょうか、
あと紙の方が耐久性の問題とか色々あると思いますが
でもそういう問題だけじゃくて、根本的な問題がある様な気がするんですよ。
それは三次元と二次元の違い、いまさらかいと言われるかも知れませんが。
やっぱり絵の方が難しいと言いましょうか、表現に制限があると思います。ただ難しい=芸術性が優れているではないと思います。
差があるとすれば非日常性では?
陶磁器なら作者の技術的な問題はあると思いますが形を作るのは
やはり容易な気がします。ただ色の表現となると絵より困難と思いますが、焼くという偶然性が加わるので
二次元に三次元のモノを描こうとするのはやはり技術的により複雑なのではないかと
勿論世の中には三次元をあまり表現的に重要視しない絵もありますが四次元を表現しようとする絵や平面的に描こうとする絵など
まず絵は造形的に美しさを表現することが出来ない、
陶磁器なら立体感、奥行きをそのまま表現出来ますが、
作者の技術の問題はあるとはいえ絵となるとそういう三次元のものをそのまま表現できない、
三次元を一度二次元に置き換える必要がある。そのせいで失っているものがあると思います。絵には
例えば応挙やダリなんかは眼で観て判るように技法的に写実な作品を描いてると思いますが、
(両者は絵画思想、表現方法は違いますが二次元の中で三次元を表現してる絵)
絵の中に現実の風景を持ち込んだ様な、
でもそういう絵は技術的な高さを感じる一方で
絵として、非常につまらない作品も多い気がします。
図鑑に載ってる絵というか、絵が死んでるというか、
ユーモアが足りないというか。まじめと言うか。
気韻生動でないというか。
円山応挙の絵の評価が高いのは応挙の代だけに限り後の派として
普及するのは、与謝蕪村の情緒的な画風の影響を受けた呉春や
松村景文の四条派やある種過剰に野性味や、装飾性の増す岸派や
森派になるのが物語っているのではないでしょうか
それでも応挙が彼がそのジャンルの第一人者というのと卓越した
技術を持ってるからではないでしょうか
また近代の初期の東洋的な表現と西洋的な表現を強引に融合させた絵が評価的にもう少し後の時代の絵と比べると落ちるのにも関係があるのでは?
でもかと言って絵に三次元的な要素を持ち込むなというと
大きな間違いな気がします。ミケランジェロの様に彫刻、絵画両方やられる方や青木木米は画、陶芸両方やるし板谷波山などには絵画的な要素があると思うから。
ようは彫刻や陶芸の三次元的なものをそのまま絵に持ち込むというのは不可能で絵で三次元を表現するためには二次元における三次元的表現がが必要なのでは?
その視点を持つと西洋の遠近法の影響を受ける以前の東洋の絵をを観ても三次元があるのではないかと没骨法的な絵、ペルシャ系の絵にもそういう風に観えなくても、当時としては3次元を表現しようとしているのではないかと
以下ジャンルが中国系の絵の話になりますが、
一見すると鈎勒法と比べ極めて平面的にみえますが、
上手な人の絵にはその平面的な世界にも確かに3次元があるのではないかと。墨の濃淡や、絵の具の抑揚や筆の掠れ具合にも、
西洋的な3次元の捉え方ではないですが
東洋的な三遠(中国画遠近法)の考え方も
現代的に観たら3次元を追求してる絵には観えませんが、
でも例えば画面全体ではなく局部的にですが
董其昌の岩なんかには三遠から観てもおかしくない、
また現代的に観てもおかしくない風に描かれてる気がします。
皺法で立体感を出すように努力して
米フツの点描の様な描写にもそれは見出せると思います。
日本画なら時代がポンと飛んでしまいますが、
福田平八郎や平面的なんだけど絵の具で立体感を出してる絵なんかにもそれと小野竹喬の風景画なんかにも三遠の方に則った絵がある様な気がします。
よく観ると米フツなんかの絵がイメージ出来る気がしますが、私の思い込みでしょうか。
あと竹内栖鳳の中国のスケッチの作品なんかにもそういう要素があるのではないでしょうか
三次元に拘るのであれば忠実に三次元を表現した絵は技術的には高くても概してつまらない絵が多いので
その辺の工夫も必要なのでは?二次元を生かした要素が、それ以外のとの組み合わせが
三次元の再現技術以外の要素が
例えば没骨法、米フツ法、三遠、自然主義、印象派、抽象、即興性
情緒、情緒性の排除、レンブラントの光、葛飾北斎の波、他多数の様なモノがただこれらを忠実に再現するだけでは、
技術的には高くてもそれは過去の模倣に過ぎず、絵として観る為には何かと組み合わせて再構成して作らないと絵とは呼べないのでは?
これは逆説的に陶磁器にも当てはまるのでは?
画工的な要素があっても、
現在過去より窯や釉薬の技術が進歩しても
デザイン面で過去の美しさや色彩を超えることが不可能であったり、何かが足りないと感じるのと同じでは?
例えば京薩摩など、磁器に画を再現しどんなに緻密に描いていて
技術的な高さは感じても、
果たして陶磁器と面白いかと問われると疑問で
板谷波山や楽茶碗の方が陶磁器的には面白い、
若しくは仁阿弥道八や鍋島の方が美しいと思うのと同じでは
例えば造形的に、釉薬の美しさなど
以上しゃべった覚書でした
本日の一言 尾形乾山って所謂琳派じゃないですか、
じゃあ野々村仁清はどうなんでしょう。
琳派じゃないのかな?時代的には尾形兄弟と被るし作風も近いし琳派っぽいと思うけど
世間的に琳派とは呼びませんよね。また野々村仁清より巧く仁清っぽいのを作る高橋道八なんかも琳派とは呼びませんよね。
和物なんていう風に呼びませよね。なぜなんでしょう?
作風はかなり琳派っぽいものを作ってると思うのですが、というか影響を受けてると思うのですが
琳派と仁清との直接の繋がりは判りませんが、
あれば直接の影響だし無ければ時代的特色だと思うのですが
これって絵で言うところの大和絵とは別に土佐派、巨勢派がある様なものなんでしょうか。
最近時間が無いので暑かったのであまり美術館には
いかず図書館で借りてきた美術書やネットで中国絵画を観てるのですが、中国絵画も面白いですね。
まとめて見ると個性や系列みたいのが判って
あとネットのオークション観てて思ったのですが
中国のオークションの情報は進んでいますね。
http://www.artron.net/index/のサイトの様に画家の
名前と値段と画が出てきて非常に素晴らしい。
日本でも是非欲しいと思いますが著作権とかで難しいのでしょうか?そんな事はさておき観てて気に入った画家の感想でも
まずは徐渭
輪郭線を使わない没骨法的な描き方するのですが、
モノの形の捉え方、墨の濃淡など、シャープで素晴らしい、
私の中ではっちゃけ度ナンバー1
(画でも私生活でも奥さんが浮気してると思い込んで殺したり
政変に巻き込まれ獄中で自殺しようとして錐で耳突いたり金玉な所突いたり)
次に沈周ぱっと観るとあまり好きではありませんが
よく観ると非常に面白い、
この人の絵で描き方的に好みなのは米法の様な点描の画をより細かく繊細にカラフルにした様な描き方と、どこか牧谿を感じる構図で(日本にある牧谿の瀟湘八景と)
上手に融合してるなぁと思いました。えぐくなく素朴な感じで
(弟子の文徴明もそういう描き方して同じく好き。
後代ですが揚州八怪の李ゼンなんかも通じるものがあると思います。あと私の感ですが与謝蕪村、池大雅の十便十宜にも影響ある?)
次は趙之謙、時代的には呉昌碩なんより一回り上の世代なんですが
呉昌碩や斉白石なんかと作品を見比べた場合
精神性云々は判りませんが、画としてはダントツ技術的に高いものを持っていると私は思います。
画は結構水気の多い感じで重厚な感じがして
(呉昌碩ぽっい感じもしますがもっと画面全面に向かって画を展開する感じ)普通なら私そういう画は好きじゃないのですが、
その構図には何か独特のものが感じられ引き付けらるものがあると思います
次は任伯年、画的にはまったく趣味ではないのですが、
でも非常に興味深い作品を描きます。
人物の描写などは非常に写実的な西洋画の影響を受けた絵を描くのですが、一方で風景や植物に眼を向けると伝統的な描き方でその組み合わせが非常にユーモラス。始めて見た時中国版橋本雅邦若しくは狩野芳崖だと思いました。(年代的にもほぼ同時代生きています)画的には非常に興味深いのですが、中国画が如何に西洋画の受けたのかというのを考える場合非常に面白い人ではないでしょうかそれだけで考えても面白いしまた同時代に日本にも似た様な画風の橋本雅邦、狩野芳崖がいるのは
興味深い事ではないでしょうか。ただ画は良いか悪いか非常に判断が分かれると思います。
橋本雅邦、狩野芳崖らをどういう風にみるのかと言うので一緒で
和洋折衷の中途半端な画家と見るのか、新しい時代の和洋融合させた画家と見るのかというので評価が分かれるのではないでしょうか
他にも?寿平とか(故宮博物館が持ってる牡丹の絵など特に良いと思います。花のビラビラがよく描かれていて
非常にインパクトがあります。画院的絵と呉派が融合していて)
ちと古いですが呉鎮とか(この人の風に揺れる竹は恐ろしくシャープ竹描きでは一番ではないかと)
観てて面白い、又は良い絵を描くなあとおもいました。
あと絵における精神性ってなんじゃいと思いました。
徐渭は恐らく精神的におかしいし(ただ絵は最高だけど)八大山人も同じく似たような感じだし
(生き延びるために装っていた説もありますが)あと曽我蕭白も似た系列?
沈周、文徴明は自ら自分の作品の贋物作り推奨
(でもこれは後代の価値観かな、当時としてはそれで貧困者を救済できてそれで良しだったのだから善人ですね
でも現代的には完全にアウトですが、あと似たような話だと日本の谷文晁も弟子に自分の落款を貸したというエピソードがあるとか)
張大千は金のためなら、文化遺産を壊し持ち帰り、過去の巨匠の自分でした模写を真作の作品として
売りつけたりとわけ判りません。
この尋常じゃないほど変わってる所が狂逸、逸品となるんでしょうか、普通じゃないから好まれる
でもそんな人が描いてる絵の精神って一体・・・なんなんだろう。
やっぱり中華思想だから、仙人や神、道教や寒山拾得的な信仰の方に行くんでしょうか?
本日の一言 christiesに若冲の絵が出てますが本物でしょうか
http://www.christies.com/LotFinder/search/LOTDETAIL.ASP?sid=&intObjectID=4777177
http://www.christies.com/LotFinder/search/LOTDETAIL.ASP?sid=&intObjectID=4777178
本物なら値段的にはお安い気がしますがどうでしょう?
墨絵だからこんなもん?それとも日本だけ異常にブーム?
個人的には以下の橋元雅邦、の絵の方が良い様な気がしますが。
値段は安いですが
(構図にもちゃっぽいと感じるじゃないけど墨の使い方が巧い)
http://www.christies.com/LotFinder/search/LOTDETAIL.ASP?sid=&intObjectID=4777207
いかず図書館で借りてきた美術書やネットで中国絵画を観てるのですが、中国絵画も面白いですね。
まとめて見ると個性や系列みたいのが判って
あとネットのオークション観てて思ったのですが
中国のオークションの情報は進んでいますね。
http://www.artron.net/index/のサイトの様に画家の
名前と値段と画が出てきて非常に素晴らしい。
日本でも是非欲しいと思いますが著作権とかで難しいのでしょうか?そんな事はさておき観てて気に入った画家の感想でも
まずは徐渭
輪郭線を使わない没骨法的な描き方するのですが、
モノの形の捉え方、墨の濃淡など、シャープで素晴らしい、
私の中ではっちゃけ度ナンバー1
(画でも私生活でも奥さんが浮気してると思い込んで殺したり
政変に巻き込まれ獄中で自殺しようとして錐で耳突いたり金玉な所突いたり)
次に沈周ぱっと観るとあまり好きではありませんが
よく観ると非常に面白い、
この人の絵で描き方的に好みなのは米法の様な点描の画をより細かく繊細にカラフルにした様な描き方と、どこか牧谿を感じる構図で(日本にある牧谿の瀟湘八景と)
上手に融合してるなぁと思いました。えぐくなく素朴な感じで
(弟子の文徴明もそういう描き方して同じく好き。
後代ですが揚州八怪の李ゼンなんかも通じるものがあると思います。あと私の感ですが与謝蕪村、池大雅の十便十宜にも影響ある?)
次は趙之謙、時代的には呉昌碩なんより一回り上の世代なんですが
呉昌碩や斉白石なんかと作品を見比べた場合
精神性云々は判りませんが、画としてはダントツ技術的に高いものを持っていると私は思います。
画は結構水気の多い感じで重厚な感じがして
(呉昌碩ぽっい感じもしますがもっと画面全面に向かって画を展開する感じ)普通なら私そういう画は好きじゃないのですが、
その構図には何か独特のものが感じられ引き付けらるものがあると思います
次は任伯年、画的にはまったく趣味ではないのですが、
でも非常に興味深い作品を描きます。
人物の描写などは非常に写実的な西洋画の影響を受けた絵を描くのですが、一方で風景や植物に眼を向けると伝統的な描き方でその組み合わせが非常にユーモラス。始めて見た時中国版橋本雅邦若しくは狩野芳崖だと思いました。(年代的にもほぼ同時代生きています)画的には非常に興味深いのですが、中国画が如何に西洋画の受けたのかというのを考える場合非常に面白い人ではないでしょうかそれだけで考えても面白いしまた同時代に日本にも似た様な画風の橋本雅邦、狩野芳崖がいるのは
興味深い事ではないでしょうか。ただ画は良いか悪いか非常に判断が分かれると思います。
橋本雅邦、狩野芳崖らをどういう風にみるのかと言うので一緒で
和洋折衷の中途半端な画家と見るのか、新しい時代の和洋融合させた画家と見るのかというので評価が分かれるのではないでしょうか
他にも?寿平とか(故宮博物館が持ってる牡丹の絵など特に良いと思います。花のビラビラがよく描かれていて
非常にインパクトがあります。画院的絵と呉派が融合していて)
ちと古いですが呉鎮とか(この人の風に揺れる竹は恐ろしくシャープ竹描きでは一番ではないかと)
観てて面白い、又は良い絵を描くなあとおもいました。
あと絵における精神性ってなんじゃいと思いました。
徐渭は恐らく精神的におかしいし(ただ絵は最高だけど)八大山人も同じく似たような感じだし
(生き延びるために装っていた説もありますが)あと曽我蕭白も似た系列?
沈周、文徴明は自ら自分の作品の贋物作り推奨
(でもこれは後代の価値観かな、当時としてはそれで貧困者を救済できてそれで良しだったのだから善人ですね
でも現代的には完全にアウトですが、あと似たような話だと日本の谷文晁も弟子に自分の落款を貸したというエピソードがあるとか)
張大千は金のためなら、文化遺産を壊し持ち帰り、過去の巨匠の自分でした模写を真作の作品として
売りつけたりとわけ判りません。
この尋常じゃないほど変わってる所が狂逸、逸品となるんでしょうか、普通じゃないから好まれる
でもそんな人が描いてる絵の精神って一体・・・なんなんだろう。
やっぱり中華思想だから、仙人や神、道教や寒山拾得的な信仰の方に行くんでしょうか?
本日の一言 christiesに若冲の絵が出てますが本物でしょうか
http://www.christies.com/LotFinder/search/LOTDETAIL.ASP?sid=&intObjectID=4777177
http://www.christies.com/LotFinder/search/LOTDETAIL.ASP?sid=&intObjectID=4777178
本物なら値段的にはお安い気がしますがどうでしょう?
墨絵だからこんなもん?それとも日本だけ異常にブーム?
個人的には以下の橋元雅邦、の絵の方が良い様な気がしますが。
値段は安いですが
(構図にもちゃっぽいと感じるじゃないけど墨の使い方が巧い)
http://www.christies.com/LotFinder/search/LOTDETAIL.ASP?sid=&intObjectID=4777207
久しく実物の絵を観ていませんが
久しぶりに絵について書こうと思います。
私の絵の見かたについて
(値段の方学術的には関係ない見方です
あくまで趣味の絵の見方として)
まずどんな絵でも悪い面より良い面を見るべし、常にプラス思考で
仮に趣味の絵じゃなくても、出来る限り先入観は持たないように
良い面を知った後から悪い面を減点すべし、
この減点もただ数だけでなく評価するのではなく
重要度で評価すべき
仮に10悪い点があろうとも
一つの良い面でその10を覆す場合もありえる。
逆もしかり、私の中では例えば曽我蕭白など、
絵としての斬新さ(しかも狩野派の封建制時代に)
筆の巧さ、構図のユニークさ、色彩感覚など、
いずれも面白いとは思うけど
トータルで見るとどれもが強烈過ぎてマイナス
という風な肝心で
次に絵の技術面や表現方法のみで評価するのではなく
画家が如何に描こうと思っていたか、
など画家の思想を知ってるなら、
この辺も評価に加えるべき、
仮に好みのの思想、絵じゃなくても
思想の体現化というのは絵を描く上で重要だから、
例えば私の場合なら横山大観がそうです。
絵は技術的巧いと思わないし
フェノロサや政治と癒着したやり方や
絵から伝わる高圧的でこれみがし的な印象
横山大観の絵画思想やそれを体現化した絵は
正直言わしてもらって嫌いですが、
でも自分が持ってる思想を体現化するという
事にかけては素晴らしい才能があると思います。
また美術学校のトップとしての派の作り方や権力との付き合い方
弟子の育成にも才能があると思います。
それは狩野探幽や狩野永徳の様に
この辺直接的には絵とは関係無いですが、
思想の体現化の一部と言うことで一つ評価に加えてはと思います
でも私の中では画家として観た場合やはり評価が低いです。
ピンとこないし絵に嫌悪感を覚えるから
最後に絵を見た後の印象とこれは重要、
これは多分100%その人の主観になると思います。
構図の巧さ、筆の巧さ、色彩感覚のように客観的に評価するのではなく(胡散臭い客観ですが無いよりマシ)
よりどのように感じるのかの問題なので
絵から一歩下がった時にどのような印象持つかというのは
作品の評価に大きな影響を及ぼすと思います。
ぱっと観の第一印象より、
スカッと爽やかな印象を持つのか、鬱々な印象持つのか、
はっちゃけた印象持つのか、
自分を大きく見せようと虚勢をはった印象持つのか、
完成度の高い印象持つのか?もっと単純に言うなら好きか嫌いか
これら第一印象+観終わった後の印象+構図、筆の巧さ、色彩感覚のような客観的評価で総合的な判断をするとかなり自分なりに分析消化できるんじゃないでしょうか?
こうして整理してみると自分の好みや画家の個性が判って
また仮に誰かと絵を観に行って自分はげっ趣味じゃないと思っていても相方が凄く気に入って感想求められた際や、
義理と人情の付き合いの展示会など
正直にコメントするとややこしい場合にも役立つんじゃないでしょうか?頷きだけやああそうね。や素晴らしいだけの
生返事のコメントよりずっと良いんじゃないでしょうか
積極的で具体的で、
久しぶりに絵について書こうと思います。
私の絵の見かたについて
(値段の方学術的には関係ない見方です
あくまで趣味の絵の見方として)
まずどんな絵でも悪い面より良い面を見るべし、常にプラス思考で
仮に趣味の絵じゃなくても、出来る限り先入観は持たないように
良い面を知った後から悪い面を減点すべし、
この減点もただ数だけでなく評価するのではなく
重要度で評価すべき
仮に10悪い点があろうとも
一つの良い面でその10を覆す場合もありえる。
逆もしかり、私の中では例えば曽我蕭白など、
絵としての斬新さ(しかも狩野派の封建制時代に)
筆の巧さ、構図のユニークさ、色彩感覚など、
いずれも面白いとは思うけど
トータルで見るとどれもが強烈過ぎてマイナス
という風な肝心で
次に絵の技術面や表現方法のみで評価するのではなく
画家が如何に描こうと思っていたか、
など画家の思想を知ってるなら、
この辺も評価に加えるべき、
仮に好みのの思想、絵じゃなくても
思想の体現化というのは絵を描く上で重要だから、
例えば私の場合なら横山大観がそうです。
絵は技術的巧いと思わないし
フェノロサや政治と癒着したやり方や
絵から伝わる高圧的でこれみがし的な印象
横山大観の絵画思想やそれを体現化した絵は
正直言わしてもらって嫌いですが、
でも自分が持ってる思想を体現化するという
事にかけては素晴らしい才能があると思います。
また美術学校のトップとしての派の作り方や権力との付き合い方
弟子の育成にも才能があると思います。
それは狩野探幽や狩野永徳の様に
この辺直接的には絵とは関係無いですが、
思想の体現化の一部と言うことで一つ評価に加えてはと思います
でも私の中では画家として観た場合やはり評価が低いです。
ピンとこないし絵に嫌悪感を覚えるから
最後に絵を見た後の印象とこれは重要、
これは多分100%その人の主観になると思います。
構図の巧さ、筆の巧さ、色彩感覚のように客観的に評価するのではなく(胡散臭い客観ですが無いよりマシ)
よりどのように感じるのかの問題なので
絵から一歩下がった時にどのような印象持つかというのは
作品の評価に大きな影響を及ぼすと思います。
ぱっと観の第一印象より、
スカッと爽やかな印象を持つのか、鬱々な印象持つのか、
はっちゃけた印象持つのか、
自分を大きく見せようと虚勢をはった印象持つのか、
完成度の高い印象持つのか?もっと単純に言うなら好きか嫌いか
これら第一印象+観終わった後の印象+構図、筆の巧さ、色彩感覚のような客観的評価で総合的な判断をするとかなり自分なりに分析消化できるんじゃないでしょうか?
こうして整理してみると自分の好みや画家の個性が判って
また仮に誰かと絵を観に行って自分はげっ趣味じゃないと思っていても相方が凄く気に入って感想求められた際や、
義理と人情の付き合いの展示会など
正直にコメントするとややこしい場合にも役立つんじゃないでしょうか?頷きだけやああそうね。や素晴らしいだけの
生返事のコメントよりずっと良いんじゃないでしょうか
積極的で具体的で、
以下は私のへ理屈と疑問です。
美人画(上村松園や鏑木清方や浮世絵などの)って
現代の美人の美的基準から言わしてもらうと
美人が描かれているわけでも無いのに、
なんで美人画って言うんだろう。
銘記が人物画だと都合が悪いのだろうか?
若しくは江戸の女性画だとか
そもそも美人画の基準ってなんなんでしょう
発生した時期って何時なんだろう。
近代なのか江戸時代なのか、
そして浮世絵の美人画と日本画の美人画を一緒の明記でいいのか?
油絵の具で描いても美人画と呼べるのか?
派生的には風景画に描き込まれる人物像を取り出したものでは無い気がする。
美人画ってあくまで人物がメインであり、
風景がメインじゃないから
かといって肖像画の系統でも無いとも思うし
ぱっと観た感じ一番近い気もしますが
肖像画って時の権力者や宗教家や金持ちの
威厳や権力をアピールするためのものだと思うので
美人画って楽しむための絵ですから違うと思うし
(特に浮世絵の美人画の場合は)
う〜ん絵ではないけど写真のブロマイド的なのが一番近いと思うけど、じゃあどうして写実的な描写ではないのかと言われると非常に厳しい
それとも私が現代の目で見てるからああいう絵が写実的に見えないだけで当時の人たちには写実的に見えたのだろうか?
一人一人の個性が判断できるくらいに?
個人的には写実的な絵ではなくデフォルメされた絵だと思うけどどうなんだろう?写実的に描かれていれば女性の肖像画になってしまうと思うので・・・
ここまで描いといて何ですが美人画って
描かれた時代、筆法、絵の具、写実性や色彩に関係なく
江戸時代の美的基準で美人を描かれていれば
美人画になるんだろうか?ある特定の様式に則って描かれていれば
でもそれってある種の粉本主義とも繋がりますよね?
果たしてそれは近代的なんだろうか?
それとも美人画は浮世絵が派生と考えた場合
元は狩野派の町絵師や狩野派を学んでいたけど出世できそうに無いから
鞍替えしてきたという説があるから、そういう狩野派の伝統の名残なんだろうか?
若しくは近世の円山派、四条派の粉本利用による影響?
あと時代を経て美人の概念が変化して現実に無い風景として
拒否された場合どうなるんだろう?消費する者が居なくなれば
美術館の中だけの作品になり衰退していくのでしょうか?狩野派や文人画の様に
若しくは過去の風景だからこそ時代的流行などで上手乗れば
現実に無いからこそノスタルジー的な風景として
受け入れられるのだろうか?
その場合、見る側としては風景若しくは肖像画になっても
やはり美人画は美人画と呼ばれるのだろうか?
あと美人画を通して近代における。西洋からの影響を考察するのも非常に面白いのではないだろうか?
例えば近世の美人画は背景は浮世絵の美人画と比べると明らかに
西洋画の写実的な影響若しくは自然主義から派生するであろう。必ずしも写実的に見えない
作者が見えるままに表現している場合があるが、美人画で一番重要であろう。
人物の部分は相変わらず浮世絵の頃と同じ価値観の美人の基準で描かれている。
(私の眼にそういう風に見えるだけなのかもしれませんが)
そういう視点から近代日本画における。写実主義の影響と
それに反するであろう。印象派やキュビスムや抽象画の影響を見ると非常に面白いのではないだろうか?
この視点から全てを論じちゃ駄目だけど
美人画(上村松園や鏑木清方や浮世絵などの)って
現代の美人の美的基準から言わしてもらうと
美人が描かれているわけでも無いのに、
なんで美人画って言うんだろう。
銘記が人物画だと都合が悪いのだろうか?
若しくは江戸の女性画だとか
そもそも美人画の基準ってなんなんでしょう
発生した時期って何時なんだろう。
近代なのか江戸時代なのか、
そして浮世絵の美人画と日本画の美人画を一緒の明記でいいのか?
油絵の具で描いても美人画と呼べるのか?
派生的には風景画に描き込まれる人物像を取り出したものでは無い気がする。
美人画ってあくまで人物がメインであり、
風景がメインじゃないから
かといって肖像画の系統でも無いとも思うし
ぱっと観た感じ一番近い気もしますが
肖像画って時の権力者や宗教家や金持ちの
威厳や権力をアピールするためのものだと思うので
美人画って楽しむための絵ですから違うと思うし
(特に浮世絵の美人画の場合は)
う〜ん絵ではないけど写真のブロマイド的なのが一番近いと思うけど、じゃあどうして写実的な描写ではないのかと言われると非常に厳しい
それとも私が現代の目で見てるからああいう絵が写実的に見えないだけで当時の人たちには写実的に見えたのだろうか?
一人一人の個性が判断できるくらいに?
個人的には写実的な絵ではなくデフォルメされた絵だと思うけどどうなんだろう?写実的に描かれていれば女性の肖像画になってしまうと思うので・・・
ここまで描いといて何ですが美人画って
描かれた時代、筆法、絵の具、写実性や色彩に関係なく
江戸時代の美的基準で美人を描かれていれば
美人画になるんだろうか?ある特定の様式に則って描かれていれば
でもそれってある種の粉本主義とも繋がりますよね?
果たしてそれは近代的なんだろうか?
それとも美人画は浮世絵が派生と考えた場合
元は狩野派の町絵師や狩野派を学んでいたけど出世できそうに無いから
鞍替えしてきたという説があるから、そういう狩野派の伝統の名残なんだろうか?
若しくは近世の円山派、四条派の粉本利用による影響?
あと時代を経て美人の概念が変化して現実に無い風景として
拒否された場合どうなるんだろう?消費する者が居なくなれば
美術館の中だけの作品になり衰退していくのでしょうか?狩野派や文人画の様に
若しくは過去の風景だからこそ時代的流行などで上手乗れば
現実に無いからこそノスタルジー的な風景として
受け入れられるのだろうか?
その場合、見る側としては風景若しくは肖像画になっても
やはり美人画は美人画と呼ばれるのだろうか?
あと美人画を通して近代における。西洋からの影響を考察するのも非常に面白いのではないだろうか?
例えば近世の美人画は背景は浮世絵の美人画と比べると明らかに
西洋画の写実的な影響若しくは自然主義から派生するであろう。必ずしも写実的に見えない
作者が見えるままに表現している場合があるが、美人画で一番重要であろう。
人物の部分は相変わらず浮世絵の頃と同じ価値観の美人の基準で描かれている。
(私の眼にそういう風に見えるだけなのかもしれませんが)
そういう視点から近代日本画における。写実主義の影響と
それに反するであろう。印象派やキュビスムや抽象画の影響を見ると非常に面白いのではないだろうか?
この視点から全てを論じちゃ駄目だけど
眠れないので独り言を少々
たまに思うのだが日本画って、
結局は和洋折衷主義の絵なんだろうか?
それも、洋画上位にきてるスタイルで、
民だけでなく官からして
日本政府はウイーン万博、パリ万博での成功で、輸出品として
日本の工芸品、芸術品が、十分通用することを知り、
さらに売るために西洋人的観点(オリエンタリズム)から見た、
日本画というものを制度的に作り上げ
(内国勧業博覧会などまた同展覧会で伝統的な南画や漢画系の絵を出品から廃し展示スタイルも同じく掛け軸を認めず)
国策として推進し、西洋人的観点から観た日本画というモノを推し進めたのではないだろうか?
プラス美術を芸術として観ず産業としてしか観ていないのではないだろうか?
この辺は現代の現代美術の美術館と関係があるんではないだろうか
またコンテンツ産業(ゲーム、アニメ、漫画にしても)
仮に横山大観や龍池会などの国粋主義的な絵があっても、
国粋主義という日本を意識する時点で、
それはもう洋の土俵に乗っかっているのではないか、
その土俵の上でどんなに足掻こうが、
戦うように乗せられてる時点で、それは負けではないだろうか?
勝ち負けの問題でも無いと思うが
過去現代いつで、戦おうとも、まず土俵を何も無い公平な土俵か、
自分たちが作り上げた土俵で無い限り、
それは常に洋に吸い込まれた形の中にある和ではないだろうか。
では、その和とはなんじゃらほいと問われれば、
私は漢画を上げたい、かつてこの国の伝統であっただろう。
中国絵画まで遡って求めたい。大和絵や琳派を間に含むにしても、
もう一度、墨の描写、筆の動きを
これも私の絵画趣味の問題と言ってしまえば、
それまでなのかもしれないけど
また洋画に対して、こういう態度を取る時点で私も上記と同じ
土俵に乗ってるのかもしれませんが、全面否定するわけでもなく、
それを全面的に受け入れるのでもなく、中途半端に、
その価値観も認める点で
でも現在の日本画に多大な影響を与える
漢画系の絵を無視するのはどうかと思う。
今のスタイルも方向性の一つとしてアリだと思いますが、
それもいい作品残していますし、それに急に路線方向は出来ないと思うから
もう一つ路線があっても良いのではと思います。
(ただこの懐古趣味的考え時代は忘れましたが、
明治か大正にも似た様な考えがあったはず)
特に大学生の卒業制作展などで絵を観てると、
胡粉塗り捲りの差がわからない絵を
また技術的な面意外でも絵に閉塞感があるので
多分近代の絵は単純に二つの対立する形式で書くと
それまでのごちゃごちゃの伝統的絵画
(狩野、土佐、円山、浮世絵、南画など)
の内での押し合いへし合いの融合とその反対に外来の洋画その中間ある新しく生まれたのが日本画
伝統的絵画・・・・・・日本画・・・・・・洋画
(またこの図式は時代が変わっても応用できるものではないでしょうか?)
でもその真ん中の日本画は本当に真ん中なのではなく
画家によって当然の事ながら、差がある。
伝統的絵画よりなのもあれば、
洋画的なものも、伝統的絵画だけの融合や伝統的絵画プラス洋画の技法を持ち込んだり
懐古趣味に走ったりそこは画家の個性
でも洋画の影響が皆無と言うのは難しいと思います。
そういう作風の派の絵は現代には引き継がれていない、
(それとも再現が不可能なのか、再現しても二番煎じと受け捉えられるのか?)
また引き継がれていても高い評価は受けてないと私には感じるのでそれに洋画を否定して描くにしても、その否定と言う意識を持つ時点で影響は受けている。
時代的に、西洋の価値観を肯定的に捉え、
これを価値観にして、描く点で、
政府もまた主導的役割を果たしたのではないでしょうか
海外で売るために、(日本画の対義語に洋画ある点などにも現れてるのではないでしょうか、この洋画には西洋画の略称だと思いますがこの対義語が東洋画ではなく日本画にある点に)
また印象派の浮世絵の影響がある点や海外のジャポニズムの評価などもこれに拍車を加えているのではないでしょうか?
で現代は明治、大正、昭和初期の作品が明治当初、
それまで伝統的だった
絵画の伝統の代わりになっているのではないかと思う。
現在進行形(村上隆、草間彌生とか)
少し前の絵、(小倉遊亀、小野竹喬、池田 遙邨、前田荻邨、東山魁夷、榊原紫峰など)
伝統的絵画(横山大観、竹内栖鳳、川合玉堂、菊池契月、土田麦遷、下村観山、菱田春草、橋本雅邦、狩野芳崖など)
伝統的絵画・・・・・・現代日本画・・・・・・洋画
で伝統的絵画は洋画的な影響を受けてるにも、関わらず、洋画という対立軸は変わらない(洋画の中身も変化してると思いますが、日本人の描いた油絵が増えてる事など)
だから洋画的趣味の絵が増える。
例えば胡粉を大量に使う作品。絵の具でデコボコの立体感や質感を与える。
この伝統的絵画に洋画的な要素が加わることにより、明治や大正と比べると
幅が狭くなり、日本画なのか洋画なのか、わからない絵が増えてるのではないでしょうか?
現代において私が伝統的絵画と少し前の絵と呼ぶ画家達は恐らく
師弟関係を考えた場合1世代、2世代戻れば
江戸時代にぶつかる。だから江戸時代の狩野派の絵手本による教育により古典なモノを模写する教育を受けている。
(浮世絵系統は知識が無いので判らん)
例えば狩野派であり、円山派、土佐派、琳派、文人画、雪舟、雪村、明兆などの画僧による絵
自分達がそういう描き方をするかどうかは別として
基礎にそういうモノを学ぶ機会、影響があったのではないでしょうか?
近代以前の絵を、好きか嫌いか、
新しい絵を作るのか、過去に逆行しようとするか、間で間合いを取るか、
それは画家個人の問題だと思うけど、
そして現代では私が伝統的絵画や少し前の絵の絵と呼ぶ人たちの
絵を見本とし、日本画と銘打って、日本画以前の古典なモノが薄くなっている結果、これは当然の結果ではないでしょうか、
それと明治期以降近代化という形で時代を経るにつれ、
江戸時代の儒学者的教育を受けた
権力者達が居なくなり文人画を理解する人達が居なくなり
文人画の評価が低くなり、その穴埋めに日本画食い込んだというのもあるのではないでしょうか、
あと狩野派亡き後の権力者のための象徴としての絵として
日本画必要だった?
生活様式も時代も欧米化しつつ
例えば日常生活での筆の消失など(だから現在墨蹟や水墨画の評価が低いのか?)
でも欧米で無い、独自路線を歩むし
少し前の人達の世代には無かったモノが目の前にあって
さらに現代の作品もあるのですから、蓄積として、
それらが目の前にある限り影響を受けているのですから
また日本画と銘打ってる楔から脱出するために、
若しくは望んで自ら飛び込んで
印象派やシュルレアリスムなどの概念や思想、技術を導入し
現代の日本画を構成しているのではないでしょうか?
(別名混沌状態)
この和洋折衷趣味から脱出しようとした。結果
(和洋折衷の走りは狩野芳崖ではないでしょうか?
悲母観音図などでよく言われるように画題は伝統的なのに、
構図は聖母マリアとイエスキリストや飛天と天使をダブらせてるなど)
より洋に転んでごちゃごちゃに
それに美術団体も月日が経った結果、歴史があり
義理と人情の枠や院展のトップと東京芸術大学の学長が一緒という様な
美術と教育と政治の繋がりなど問題があるのではと思いましたとさ
美術、芸術と政治、宗教の繋がりは別に悪いとは言いません
それで発展したと言える面あるので、
法華経の狩野派や本阿弥光悦、白蓮教と文人画や坊さんと禅画や
画院制度と皇帝やイコンと東方正教会やラファエロのヴァチカンの天井画や
ファベルジェのImperial Easter Eggなど
例は沢山あり、また庇護者になる場合もあるので
でも同時に美術と政治が結びつくことにより
停滞すること、若しくは政治利用もあるので、例えば狩野派の絵手本主義や
横山大観の直接的に戦争を描く行為はしてないけど、だから戦争画ではないけど
でも翼賛はしてる絵や反対路線のいわさきちひろの絵など
ただ政治的に繋がりがあるから絵が好き、嫌い、
巧い、下手また和や洋だから良いとか、悪いとか
では無いと思いますが・・・
そういうので好きと言うのなら完全に踊らされてると思います。
作品の後ろにあるなんらかの意思を持ったものに、
(ただこの意思に踊らされるのも良いのか悪いのか難しい)
結局は個人の意志の問題か?
話が纏まり無さそうなのと眠たくなってきて考えられないので
途中ですが以上、
この辺で駄文で失礼
たまに思うのだが日本画って、
結局は和洋折衷主義の絵なんだろうか?
それも、洋画上位にきてるスタイルで、
民だけでなく官からして
日本政府はウイーン万博、パリ万博での成功で、輸出品として
日本の工芸品、芸術品が、十分通用することを知り、
さらに売るために西洋人的観点(オリエンタリズム)から見た、
日本画というものを制度的に作り上げ
(内国勧業博覧会などまた同展覧会で伝統的な南画や漢画系の絵を出品から廃し展示スタイルも同じく掛け軸を認めず)
国策として推進し、西洋人的観点から観た日本画というモノを推し進めたのではないだろうか?
プラス美術を芸術として観ず産業としてしか観ていないのではないだろうか?
この辺は現代の現代美術の美術館と関係があるんではないだろうか
またコンテンツ産業(ゲーム、アニメ、漫画にしても)
仮に横山大観や龍池会などの国粋主義的な絵があっても、
国粋主義という日本を意識する時点で、
それはもう洋の土俵に乗っかっているのではないか、
その土俵の上でどんなに足掻こうが、
戦うように乗せられてる時点で、それは負けではないだろうか?
勝ち負けの問題でも無いと思うが
過去現代いつで、戦おうとも、まず土俵を何も無い公平な土俵か、
自分たちが作り上げた土俵で無い限り、
それは常に洋に吸い込まれた形の中にある和ではないだろうか。
では、その和とはなんじゃらほいと問われれば、
私は漢画を上げたい、かつてこの国の伝統であっただろう。
中国絵画まで遡って求めたい。大和絵や琳派を間に含むにしても、
もう一度、墨の描写、筆の動きを
これも私の絵画趣味の問題と言ってしまえば、
それまでなのかもしれないけど
また洋画に対して、こういう態度を取る時点で私も上記と同じ
土俵に乗ってるのかもしれませんが、全面否定するわけでもなく、
それを全面的に受け入れるのでもなく、中途半端に、
その価値観も認める点で
でも現在の日本画に多大な影響を与える
漢画系の絵を無視するのはどうかと思う。
今のスタイルも方向性の一つとしてアリだと思いますが、
それもいい作品残していますし、それに急に路線方向は出来ないと思うから
もう一つ路線があっても良いのではと思います。
(ただこの懐古趣味的考え時代は忘れましたが、
明治か大正にも似た様な考えがあったはず)
特に大学生の卒業制作展などで絵を観てると、
胡粉塗り捲りの差がわからない絵を
また技術的な面意外でも絵に閉塞感があるので
多分近代の絵は単純に二つの対立する形式で書くと
それまでのごちゃごちゃの伝統的絵画
(狩野、土佐、円山、浮世絵、南画など)
の内での押し合いへし合いの融合とその反対に外来の洋画その中間ある新しく生まれたのが日本画
伝統的絵画・・・・・・日本画・・・・・・洋画
(またこの図式は時代が変わっても応用できるものではないでしょうか?)
でもその真ん中の日本画は本当に真ん中なのではなく
画家によって当然の事ながら、差がある。
伝統的絵画よりなのもあれば、
洋画的なものも、伝統的絵画だけの融合や伝統的絵画プラス洋画の技法を持ち込んだり
懐古趣味に走ったりそこは画家の個性
でも洋画の影響が皆無と言うのは難しいと思います。
そういう作風の派の絵は現代には引き継がれていない、
(それとも再現が不可能なのか、再現しても二番煎じと受け捉えられるのか?)
また引き継がれていても高い評価は受けてないと私には感じるのでそれに洋画を否定して描くにしても、その否定と言う意識を持つ時点で影響は受けている。
時代的に、西洋の価値観を肯定的に捉え、
これを価値観にして、描く点で、
政府もまた主導的役割を果たしたのではないでしょうか
海外で売るために、(日本画の対義語に洋画ある点などにも現れてるのではないでしょうか、この洋画には西洋画の略称だと思いますがこの対義語が東洋画ではなく日本画にある点に)
また印象派の浮世絵の影響がある点や海外のジャポニズムの評価などもこれに拍車を加えているのではないでしょうか?
で現代は明治、大正、昭和初期の作品が明治当初、
それまで伝統的だった
絵画の伝統の代わりになっているのではないかと思う。
現在進行形(村上隆、草間彌生とか)
少し前の絵、(小倉遊亀、小野竹喬、池田 遙邨、前田荻邨、東山魁夷、榊原紫峰など)
伝統的絵画(横山大観、竹内栖鳳、川合玉堂、菊池契月、土田麦遷、下村観山、菱田春草、橋本雅邦、狩野芳崖など)
伝統的絵画・・・・・・現代日本画・・・・・・洋画
で伝統的絵画は洋画的な影響を受けてるにも、関わらず、洋画という対立軸は変わらない(洋画の中身も変化してると思いますが、日本人の描いた油絵が増えてる事など)
だから洋画的趣味の絵が増える。
例えば胡粉を大量に使う作品。絵の具でデコボコの立体感や質感を与える。
この伝統的絵画に洋画的な要素が加わることにより、明治や大正と比べると
幅が狭くなり、日本画なのか洋画なのか、わからない絵が増えてるのではないでしょうか?
現代において私が伝統的絵画と少し前の絵と呼ぶ画家達は恐らく
師弟関係を考えた場合1世代、2世代戻れば
江戸時代にぶつかる。だから江戸時代の狩野派の絵手本による教育により古典なモノを模写する教育を受けている。
(浮世絵系統は知識が無いので判らん)
例えば狩野派であり、円山派、土佐派、琳派、文人画、雪舟、雪村、明兆などの画僧による絵
自分達がそういう描き方をするかどうかは別として
基礎にそういうモノを学ぶ機会、影響があったのではないでしょうか?
近代以前の絵を、好きか嫌いか、
新しい絵を作るのか、過去に逆行しようとするか、間で間合いを取るか、
それは画家個人の問題だと思うけど、
そして現代では私が伝統的絵画や少し前の絵の絵と呼ぶ人たちの
絵を見本とし、日本画と銘打って、日本画以前の古典なモノが薄くなっている結果、これは当然の結果ではないでしょうか、
それと明治期以降近代化という形で時代を経るにつれ、
江戸時代の儒学者的教育を受けた
権力者達が居なくなり文人画を理解する人達が居なくなり
文人画の評価が低くなり、その穴埋めに日本画食い込んだというのもあるのではないでしょうか、
あと狩野派亡き後の権力者のための象徴としての絵として
日本画必要だった?
生活様式も時代も欧米化しつつ
例えば日常生活での筆の消失など(だから現在墨蹟や水墨画の評価が低いのか?)
でも欧米で無い、独自路線を歩むし
少し前の人達の世代には無かったモノが目の前にあって
さらに現代の作品もあるのですから、蓄積として、
それらが目の前にある限り影響を受けているのですから
また日本画と銘打ってる楔から脱出するために、
若しくは望んで自ら飛び込んで
印象派やシュルレアリスムなどの概念や思想、技術を導入し
現代の日本画を構成しているのではないでしょうか?
(別名混沌状態)
この和洋折衷趣味から脱出しようとした。結果
(和洋折衷の走りは狩野芳崖ではないでしょうか?
悲母観音図などでよく言われるように画題は伝統的なのに、
構図は聖母マリアとイエスキリストや飛天と天使をダブらせてるなど)
より洋に転んでごちゃごちゃに
それに美術団体も月日が経った結果、歴史があり
義理と人情の枠や院展のトップと東京芸術大学の学長が一緒という様な
美術と教育と政治の繋がりなど問題があるのではと思いましたとさ
美術、芸術と政治、宗教の繋がりは別に悪いとは言いません
それで発展したと言える面あるので、
法華経の狩野派や本阿弥光悦、白蓮教と文人画や坊さんと禅画や
画院制度と皇帝やイコンと東方正教会やラファエロのヴァチカンの天井画や
ファベルジェのImperial Easter Eggなど
例は沢山あり、また庇護者になる場合もあるので
でも同時に美術と政治が結びつくことにより
停滞すること、若しくは政治利用もあるので、例えば狩野派の絵手本主義や
横山大観の直接的に戦争を描く行為はしてないけど、だから戦争画ではないけど
でも翼賛はしてる絵や反対路線のいわさきちひろの絵など
ただ政治的に繋がりがあるから絵が好き、嫌い、
巧い、下手また和や洋だから良いとか、悪いとか
では無いと思いますが・・・
そういうので好きと言うのなら完全に踊らされてると思います。
作品の後ろにあるなんらかの意思を持ったものに、
(ただこの意思に踊らされるのも良いのか悪いのか難しい)
結局は個人の意志の問題か?
話が纏まり無さそうなのと眠たくなってきて考えられないので
途中ですが以上、
この辺で駄文で失礼
義理で、知り合いの中国人とそのお父さんの水墨と
日本人の書の展示会を見に行ってきたんですが、
義理で行った割には思いのほか絵の方は内容の方は良かったのですが、ちと今の日本の水墨画ってなんなんでしょうと考えてしまいました。
どうして今の日本には優れた水墨画家がいないのかと
(このテーマはしつこいですが、私が現代の作家で、これだ。求める作品だというのに出会わない限り書き続けます)
一つ 消費する側が水墨を求めない、需要の低下、また生活環境 の変化により展示スペースの変化
一つ 消費する側が水墨画に対する理解、知識の低下
一つ 近代の西洋画の価値観、絵画観により、
水墨画的価値観の低下
(それ以外の広い西洋文化への憧れも含む)
一つ 作品を評価する側の、浸透性の絵の具を使う作品への評価の 低下
一つ 江戸期の池大雅による、日本的解釈による水墨画として の一つの世界の完成、
またそれ以後登場する。日本的に解釈による水墨画の世界を 発達させた田能村竹田、富岡鉄斎の世界を打破するだけの
才能、技法の欠如
一つ 池大雅による、日本的解釈による水墨画の世界観の完成より
本来、池大雅の世界観にも非常に重要であったはずの、
元の中国水墨への理解の低下
一つ 日本的水墨の比重が増した、結果。時代の変化、
(技法、表現の発達など)に乗り遅れ、
その結果の行き詰まり
中国なら、薫源、王維、董其昌、八大山人、呉昌碩、
張大千、と時代時代に、時代を接続する者、改革者が登場す るのかもしれせんが、
でもこの辺は消費する側の王朝の興隆や、商人の興隆など
とも関係しているのかも
一つ 鉛筆の普及より筆文化の欠如、
これらが重なり合った結果、現在そういう作品が欠如してるのだと思うのですが、今後どうでしょう?
これらを打破することは、可能なのでしょうか。
個人の才能に関する部分は置いといて、
これは天に運を任せるしかないので
才能を探す必要性はありますが
他の育成の部分ではどうにかならないのでしょうか
(水墨画に対する理解や、窓口を広げるという部分で)
この中国人に聞いたのですが、中国には学校で中国画の時間があるらしい。これを日本に導入する事って無理なんですかね。
今現在、義務教育そして恐らく高等学校でも
日本画は教えられてませんが
(理由は技術的に習得が難しい、岩絵の具が高価という理由で)
でも日本画でも付立なんかは可能だと思うのですが、絵の具も安いし、墨も紙も義務教育で教えれば筆も多少は触れられるし、
その他の関連した文化にも触れますし
その後も触れる機会も増える。(日本画だけでなく、トータル関連する文化も幅広くで)
ただ今の教師が教えられるかと言うと、疑問ですが・・・
でも現代の日本画で浸透性の絵の具が使われてる作品が
ほぼ皆無なのを考えると、これぐらいしないと、
今後登場しないしまた作品として消え去る気がするのですが
国策として、でもそうなると、
今まで評価されたはずの作品の価値の暴落などもあるので、
無いかなぁ〜
え〜ぐだぐだ書いてきましたが、良い作品が観たいだけ、
それだけです。以上
日本人の書の展示会を見に行ってきたんですが、
義理で行った割には思いのほか絵の方は内容の方は良かったのですが、ちと今の日本の水墨画ってなんなんでしょうと考えてしまいました。
どうして今の日本には優れた水墨画家がいないのかと
(このテーマはしつこいですが、私が現代の作家で、これだ。求める作品だというのに出会わない限り書き続けます)
一つ 消費する側が水墨を求めない、需要の低下、また生活環境 の変化により展示スペースの変化
一つ 消費する側が水墨画に対する理解、知識の低下
一つ 近代の西洋画の価値観、絵画観により、
水墨画的価値観の低下
(それ以外の広い西洋文化への憧れも含む)
一つ 作品を評価する側の、浸透性の絵の具を使う作品への評価の 低下
一つ 江戸期の池大雅による、日本的解釈による水墨画として の一つの世界の完成、
またそれ以後登場する。日本的に解釈による水墨画の世界を 発達させた田能村竹田、富岡鉄斎の世界を打破するだけの
才能、技法の欠如
一つ 池大雅による、日本的解釈による水墨画の世界観の完成より
本来、池大雅の世界観にも非常に重要であったはずの、
元の中国水墨への理解の低下
一つ 日本的水墨の比重が増した、結果。時代の変化、
(技法、表現の発達など)に乗り遅れ、
その結果の行き詰まり
中国なら、薫源、王維、董其昌、八大山人、呉昌碩、
張大千、と時代時代に、時代を接続する者、改革者が登場す るのかもしれせんが、
でもこの辺は消費する側の王朝の興隆や、商人の興隆など
とも関係しているのかも
一つ 鉛筆の普及より筆文化の欠如、
これらが重なり合った結果、現在そういう作品が欠如してるのだと思うのですが、今後どうでしょう?
これらを打破することは、可能なのでしょうか。
個人の才能に関する部分は置いといて、
これは天に運を任せるしかないので
才能を探す必要性はありますが
他の育成の部分ではどうにかならないのでしょうか
(水墨画に対する理解や、窓口を広げるという部分で)
この中国人に聞いたのですが、中国には学校で中国画の時間があるらしい。これを日本に導入する事って無理なんですかね。
今現在、義務教育そして恐らく高等学校でも
日本画は教えられてませんが
(理由は技術的に習得が難しい、岩絵の具が高価という理由で)
でも日本画でも付立なんかは可能だと思うのですが、絵の具も安いし、墨も紙も義務教育で教えれば筆も多少は触れられるし、
その他の関連した文化にも触れますし
その後も触れる機会も増える。(日本画だけでなく、トータル関連する文化も幅広くで)
ただ今の教師が教えられるかと言うと、疑問ですが・・・
でも現代の日本画で浸透性の絵の具が使われてる作品が
ほぼ皆無なのを考えると、これぐらいしないと、
今後登場しないしまた作品として消え去る気がするのですが
国策として、でもそうなると、
今まで評価されたはずの作品の価値の暴落などもあるので、
無いかなぁ〜
え〜ぐだぐだ書いてきましたが、良い作品が観たいだけ、
それだけです。以上
ここ数日勉強した事と個人的意見を足したメモ
写生と写実というのは違う
今まで長い間混同して考えていましたが、
先に断っときますが、写生だから評価が良いとか、
写実的だから絵の評価が悪いということは無いです。
写生は究極的には、
子供が実際に眼の前の母親を見て
仮に技術的が無いために、子供らしい絵でも
母親をその通りに描けなくても写生、実際に生で見て、
写してるわけだから
ゴッホや印象派の絵は写生して描いているにも関わらず現実的には見えない。
日本でなら司馬江漢の作品なども、そうじゃないでしょうか?
また雪舟などの真景図と呼ばれる作品も
でも実物を見、実景を見、写生はしてる。
写生は字の如し目で見た生を写す事を表している。
写生は絵に対する方向性、
写実はスーパーリアリズムとかの凄いアップの写真とか、
決定的瞬間、現実にはありえない風景でも、
また仮に写生をして描いてなくても、物凄く現実的に感じる。
サルバドール・ダリの作品や
若しくは写生しても(自然美ではなく)絵として美しさを求めるために、
写生したモノを纏めて余分なモノを省いたり、
写生した時のポーズでは無い絵で描いたり
現実的に見せる為に、本来無いモノを付け加えたりする。色を鮮やかにしたり、現実とは違っても見る人とが持つイメージに合わす。
また三次元を意識したり、質量感や、立体感、奥行きなど
写実はそういう現実的に見せる。技術を指す
また写生を表現するために写実的表現が使われる事もあり、対立しあうものではない、
で。この考えを元に、
京都市美術館へルーブル展と写生の時間展を見に行ったんですが
やはり日本画って写生を取り入れてる絵は沢山あっても写実性を意識してる。
絵の具の濃淡での遠近の表わし方や影の表現、質感の表現など
絵って実は物凄く少ないのではという事、
(近代だけに限らず少し前の江戸時代の池大雅、伊藤若冲、琳派
もっと前の雪舟にしても、雪舟と池大雅は真景図という写生をした作品を残していますが、写実的ではありません。
また伊藤若冲は写生はしていても、色の具合が強烈で写実的というより、幻想の絵。)
それは日本画の絵の具の難しさ、
例えば墨を自分の思い通りに表現しようとするのは難しい、
それよりもそういう墨の思い通りにならない所を楽しんだ方が簡単。
岩絵の具は、絵の具の種類が少ないし、色を混ぜて作るのは無理
また膠で付着させる性質上重ねて塗るのは剥離する恐れがあるから難しい。仮に浸透性の絵の具を使うにしても、
それでは質量感を出すための重ね塗りは難しいなど
技術的に色々あるからだと思うのですが、
また写実的表現が少ないのは日本人の美意識とも関係しているのではないでしょうか
例えば日本には写実的なミケランジェロ若しくは古代ローマの様なの彫刻作品が無いの何故か?
大きな仏像を作るなどの、材木の加工、金属の加工技術などがあったにも関わらず。
また応挙の非常に写実的な絵が、
(応挙は写実性というのなら、日本画でトップクラスじゃないでしょうか)
何故応挙以降の世代の人間に引き継がれず、実物を見て描く写生と言う姿勢、付立と言う技術は引き継がれても
ロマン主義的な松村景文、呉春の様な作品が多くなるのは何故か?
また日本画に影を取り入れた絵が非常に少ないのも
(過去、現代に限らず、この影と言うのは西洋画の様に、ある一点から光を取り入れて影を表現してる影)
これらは日本人の写生的なモノの好みが関係してるのではと思います。絵の具の特性と相成って
ただ日本に写実感が無いかと言うとそんなことは無く、
西洋画とは基準の違う写実感というのもあると思います。
例えば今回観て思ったのですが、洋画の風景画なら、春なのか、夏なのか、秋なのか判らないけど、
これは私が日本人だからというのもあると思うのですが、
日本画には季節感が常にあるということ、
風景画を観れば、春か夏か、すぐに判る。若しくは鳥の羽を見たり、なんの植物の花かというので
そういうもので季節感が得られる。題名ではなく絵、そのもので
これは日本的な写実感なのではと思います。
ということで今回の展示会は非常に楽しめたし、ためになりました。
特に写生の時間展は(人が多くルーブル展はあまり観れませんでしたが)
近代への応挙の影響というのも実感できましたし、
(誰の絵か忘れましたが、子犬を描いた絵でしたが、応挙と構図、描き方共にものの見事に一緒でした。
これが何故一緒なのか、応挙の粉本による影響なのか、それとも個人の力での到達なのかは判りませんが)
あと竹内栖鳳の年を重ねるほど、南画傾向になるのも実感でき、
栖鳳の四条派嫌いを確認できました。
竹内栖鳳の作品は下絵や写生帖が随分出ていました、
でも本画はありませんでした。
やはり本画は竹内栖鳳記念館がドタバタしてる時に売り飛ばされてしまったのでしょうか、どこに行ったのか謎です。
バブル期崩壊後何年かした後に差し押さえたモノを債権者が
海外のオークションで現金化したようにその内大量に売りに出されるかもしれませんが
しかし今回の展示会ただ一つだけ納得出来ない事があります。
それは掛け軸を吊るして展示するのではなく、テーブルに寝かせて展示させていた事です。
観た時唖然としてしまいしました。こんな展示方法アリかいと
その絵は富岡鉄斎の掛け軸、
どう考えても展示方法間違ってるだろう。
情けない、美術館なのに・・・日本画の展示会なのに、
もうちょっとマシな展示方法無いのでしょうか。
こんないい加減な展示方法してたら
ちょうど観に行ったの盆の時期だったし
富岡鉄斎が墓場起きて来て怒鳴り込んでくるぞ。
こんな展示方法か怖いからやめてくれ
写生と写実というのは違う
今まで長い間混同して考えていましたが、
先に断っときますが、写生だから評価が良いとか、
写実的だから絵の評価が悪いということは無いです。
写生は究極的には、
子供が実際に眼の前の母親を見て
仮に技術的が無いために、子供らしい絵でも
母親をその通りに描けなくても写生、実際に生で見て、
写してるわけだから
ゴッホや印象派の絵は写生して描いているにも関わらず現実的には見えない。
日本でなら司馬江漢の作品なども、そうじゃないでしょうか?
また雪舟などの真景図と呼ばれる作品も
でも実物を見、実景を見、写生はしてる。
写生は字の如し目で見た生を写す事を表している。
写生は絵に対する方向性、
写実はスーパーリアリズムとかの凄いアップの写真とか、
決定的瞬間、現実にはありえない風景でも、
また仮に写生をして描いてなくても、物凄く現実的に感じる。
サルバドール・ダリの作品や
若しくは写生しても(自然美ではなく)絵として美しさを求めるために、
写生したモノを纏めて余分なモノを省いたり、
写生した時のポーズでは無い絵で描いたり
現実的に見せる為に、本来無いモノを付け加えたりする。色を鮮やかにしたり、現実とは違っても見る人とが持つイメージに合わす。
また三次元を意識したり、質量感や、立体感、奥行きなど
写実はそういう現実的に見せる。技術を指す
また写生を表現するために写実的表現が使われる事もあり、対立しあうものではない、
で。この考えを元に、
京都市美術館へルーブル展と写生の時間展を見に行ったんですが
やはり日本画って写生を取り入れてる絵は沢山あっても写実性を意識してる。
絵の具の濃淡での遠近の表わし方や影の表現、質感の表現など
絵って実は物凄く少ないのではという事、
(近代だけに限らず少し前の江戸時代の池大雅、伊藤若冲、琳派
もっと前の雪舟にしても、雪舟と池大雅は真景図という写生をした作品を残していますが、写実的ではありません。
また伊藤若冲は写生はしていても、色の具合が強烈で写実的というより、幻想の絵。)
それは日本画の絵の具の難しさ、
例えば墨を自分の思い通りに表現しようとするのは難しい、
それよりもそういう墨の思い通りにならない所を楽しんだ方が簡単。
岩絵の具は、絵の具の種類が少ないし、色を混ぜて作るのは無理
また膠で付着させる性質上重ねて塗るのは剥離する恐れがあるから難しい。仮に浸透性の絵の具を使うにしても、
それでは質量感を出すための重ね塗りは難しいなど
技術的に色々あるからだと思うのですが、
また写実的表現が少ないのは日本人の美意識とも関係しているのではないでしょうか
例えば日本には写実的なミケランジェロ若しくは古代ローマの様なの彫刻作品が無いの何故か?
大きな仏像を作るなどの、材木の加工、金属の加工技術などがあったにも関わらず。
また応挙の非常に写実的な絵が、
(応挙は写実性というのなら、日本画でトップクラスじゃないでしょうか)
何故応挙以降の世代の人間に引き継がれず、実物を見て描く写生と言う姿勢、付立と言う技術は引き継がれても
ロマン主義的な松村景文、呉春の様な作品が多くなるのは何故か?
また日本画に影を取り入れた絵が非常に少ないのも
(過去、現代に限らず、この影と言うのは西洋画の様に、ある一点から光を取り入れて影を表現してる影)
これらは日本人の写生的なモノの好みが関係してるのではと思います。絵の具の特性と相成って
ただ日本に写実感が無いかと言うとそんなことは無く、
西洋画とは基準の違う写実感というのもあると思います。
例えば今回観て思ったのですが、洋画の風景画なら、春なのか、夏なのか、秋なのか判らないけど、
これは私が日本人だからというのもあると思うのですが、
日本画には季節感が常にあるということ、
風景画を観れば、春か夏か、すぐに判る。若しくは鳥の羽を見たり、なんの植物の花かというので
そういうもので季節感が得られる。題名ではなく絵、そのもので
これは日本的な写実感なのではと思います。
ということで今回の展示会は非常に楽しめたし、ためになりました。
特に写生の時間展は(人が多くルーブル展はあまり観れませんでしたが)
近代への応挙の影響というのも実感できましたし、
(誰の絵か忘れましたが、子犬を描いた絵でしたが、応挙と構図、描き方共にものの見事に一緒でした。
これが何故一緒なのか、応挙の粉本による影響なのか、それとも個人の力での到達なのかは判りませんが)
あと竹内栖鳳の年を重ねるほど、南画傾向になるのも実感でき、
栖鳳の四条派嫌いを確認できました。
竹内栖鳳の作品は下絵や写生帖が随分出ていました、
でも本画はありませんでした。
やはり本画は竹内栖鳳記念館がドタバタしてる時に売り飛ばされてしまったのでしょうか、どこに行ったのか謎です。
バブル期崩壊後何年かした後に差し押さえたモノを債権者が
海外のオークションで現金化したようにその内大量に売りに出されるかもしれませんが
しかし今回の展示会ただ一つだけ納得出来ない事があります。
それは掛け軸を吊るして展示するのではなく、テーブルに寝かせて展示させていた事です。
観た時唖然としてしまいしました。こんな展示方法アリかいと
その絵は富岡鉄斎の掛け軸、
どう考えても展示方法間違ってるだろう。
情けない、美術館なのに・・・日本画の展示会なのに、
もうちょっとマシな展示方法無いのでしょうか。
こんないい加減な展示方法してたら
ちょうど観に行ったの盆の時期だったし
富岡鉄斎が墓場起きて来て怒鳴り込んでくるぞ。
こんな展示方法か怖いからやめてくれ
唐突ですが山水画ってなんなんだろう。
山水画は西洋画における風景画とは違いますし、
写生画でもありませんし
かといって宗教性が非常に強い絵や装飾目的の絵ではありません。
画中に山水に遊ぶというのが、答えなんだと思いますが、
(私はこれを今のところ理解できません)
しかしこれを日本の雪舟、相阿弥、狩野正信らの初期狩野派の画家たちは理解していたのでしょうか?
室町時代の山水画は中国画の山水を模倣しているのは理解できますが、
山水画の目的、考え方、精神は理解できていたのでしょうか?
それでは理解してないとなると日本の山水画とは中国画を模倣している。若しくは本来の山水と遊ぶという目的をを離れ
中国風の香りがする絵画を描くいう事にはならないのでしょうか。
中国らしさを感じるという部分に重きを置き
そしてそれは山水というより、想像画の部類になるんじゃないでしょうか?写生を無視し、写意を無視し
中国では写生性を重視しなくても太湖石や巨岩
垂直にそそり立つ様な山など山水画で描けるべき風景が実際にありますが、日本には無い。完全に想像によらなくてはならないから。
そしてその流れは、絵における三次元的表現の意識より
画面構成への意識を重視する流れになり、
日本的な絵を生み出したのではなかろうか、
三次元的表現より、平面的美しさ、画面構成の美しさ
筆の流れ、動き、余韻を楽しむような方向へ
そういう結果、狩野探幽や琳派が登場したのではないでしょうか。
そんな中で登場した池大雅は非常に特異な画家ではないでしょうか。実際の風景を見ながらも自分の心に写ったモノを写す、
写意を重視するという、本来の中国的な山水画を描く画家という事で、思想的に、意識的に
また近年の山水画がつくね芋山水などと言われるのは
円山応挙という、三次元性を意識した画家が登場したため、
山水でも三次元性を表現しようとした。
結果の失敗例なのではないでしょうか。
そのドツボから脱出できなかった、出来ない。
結果現在の日本における、山水画の衰退に至ったのではないでしょうか。若しくは今の日本には画中に山水に遊ぶという様な余裕が無いため、製作する側にも消費する側にも
山水画は西洋画における風景画とは違いますし、
写生画でもありませんし
かといって宗教性が非常に強い絵や装飾目的の絵ではありません。
画中に山水に遊ぶというのが、答えなんだと思いますが、
(私はこれを今のところ理解できません)
しかしこれを日本の雪舟、相阿弥、狩野正信らの初期狩野派の画家たちは理解していたのでしょうか?
室町時代の山水画は中国画の山水を模倣しているのは理解できますが、
山水画の目的、考え方、精神は理解できていたのでしょうか?
それでは理解してないとなると日本の山水画とは中国画を模倣している。若しくは本来の山水と遊ぶという目的をを離れ
中国風の香りがする絵画を描くいう事にはならないのでしょうか。
中国らしさを感じるという部分に重きを置き
そしてそれは山水というより、想像画の部類になるんじゃないでしょうか?写生を無視し、写意を無視し
中国では写生性を重視しなくても太湖石や巨岩
垂直にそそり立つ様な山など山水画で描けるべき風景が実際にありますが、日本には無い。完全に想像によらなくてはならないから。
そしてその流れは、絵における三次元的表現の意識より
画面構成への意識を重視する流れになり、
日本的な絵を生み出したのではなかろうか、
三次元的表現より、平面的美しさ、画面構成の美しさ
筆の流れ、動き、余韻を楽しむような方向へ
そういう結果、狩野探幽や琳派が登場したのではないでしょうか。
そんな中で登場した池大雅は非常に特異な画家ではないでしょうか。実際の風景を見ながらも自分の心に写ったモノを写す、
写意を重視するという、本来の中国的な山水画を描く画家という事で、思想的に、意識的に
また近年の山水画がつくね芋山水などと言われるのは
円山応挙という、三次元性を意識した画家が登場したため、
山水でも三次元性を表現しようとした。
結果の失敗例なのではないでしょうか。
そのドツボから脱出できなかった、出来ない。
結果現在の日本における、山水画の衰退に至ったのではないでしょうか。若しくは今の日本には画中に山水に遊ぶという様な余裕が無いため、製作する側にも消費する側にも