上村松園の作品展の感想
本当は絵を観に行ったというより、
人ごみに飛び込んできたという感じでしたが、
で肝心の絵の方はですが、
上村松園は絵の具の塗り方が抜群に上手い、その一言じゃないでしょうか。
着物の色の濃淡での皺の表現とか、着物が透けて襦袢が見える感じなど、
髪の毛の表現、着物の柄の緻密さ、また絵の具が飛んでるとか掠れてるという事がない。
あと線の引き方。物凄く繊細じゃないけど、迷い無くバシッと決まっていてスキッとしている。
だだしいて言えば上村松園のは、人物や着物の描写は素晴らしいですが、
背景、絵の構図全体でやや人物がなんか浮いて見えたり
人物の描写に仮に100%力入れて描いてるとしたら、背景、絵の構図全体の側には
それだけ多分注いで、ないよね。という絵がある部分じゃないでしょうか?
あとは紋切りの作品もあるなぁと、福田平八郎の晩年の絵みたいに、酷くはないけど。
それと上村松園は品が良いと言われてますが、結構えげつないのもありますね。
楊貴妃とか焔は(橋本関雪や岡本神草かとツッコミたい)というか鈴木松年の影響?
それよりも持った印象は何れも大人な女性だなあという印象の方が強かったです。
(画題に書かれてる場合もありますが、なんか後ろにあるのねと勝手に妄想していました)。
逆に少女の絵というのはなかった気がしました。(それとも現代の私では上村松園の時代の少女の感覚が分からないだけ?)
美人画は大人で、少女ではダメというルールがあったのか、本人に描く気が無かったのか。
疑問に思うところでした。
本当は絵を観に行ったというより、
人ごみに飛び込んできたという感じでしたが、
で肝心の絵の方はですが、
上村松園は絵の具の塗り方が抜群に上手い、その一言じゃないでしょうか。
着物の色の濃淡での皺の表現とか、着物が透けて襦袢が見える感じなど、
髪の毛の表現、着物の柄の緻密さ、また絵の具が飛んでるとか掠れてるという事がない。
あと線の引き方。物凄く繊細じゃないけど、迷い無くバシッと決まっていてスキッとしている。
だだしいて言えば上村松園のは、人物や着物の描写は素晴らしいですが、
背景、絵の構図全体でやや人物がなんか浮いて見えたり
人物の描写に仮に100%力入れて描いてるとしたら、背景、絵の構図全体の側には
それだけ多分注いで、ないよね。という絵がある部分じゃないでしょうか?
あとは紋切りの作品もあるなぁと、福田平八郎の晩年の絵みたいに、酷くはないけど。
それと上村松園は品が良いと言われてますが、結構えげつないのもありますね。
楊貴妃とか焔は(橋本関雪や岡本神草かとツッコミたい)というか鈴木松年の影響?
それよりも持った印象は何れも大人な女性だなあという印象の方が強かったです。
(画題に書かれてる場合もありますが、なんか後ろにあるのねと勝手に妄想していました)。
逆に少女の絵というのはなかった気がしました。(それとも現代の私では上村松園の時代の少女の感覚が分からないだけ?)
美人画は大人で、少女ではダメというルールがあったのか、本人に描く気が無かったのか。
疑問に思うところでした。
作品展の感想でも
京都市美術館のは京の閨秀・女流・女性画家‐担ったもの/担わされたものはというタイトルで,女性の画家ばかりだったのですが、
観ていて思ったのは、いきなりえげつない話であれですが
上村松園、秋野不矩、梶原緋佐子はなんとなく値段の方が想像つきますが、他の人はどうなんでしょう?
当時は別として現代では?画家として評価されてるんでしょうか?
あと相変わらず保存が悪いなと
上村松園のはさすがにそんな事はないですが、絵の具の特性もあると思いますが、けど他のちょっと名前が落ちる画家だと
絵の具が剥落したり、茶色いシミやカビが生えてて本当にいつも思うのですが、もうちょっとちゃんと保存してあげたら、という感じでした。
作品観てて思った感想は、女性が女性を(若しくは子供)描く絵が多かったですが、というか男性を描いている絵が無かった様な・・・
(美術館が意識的にそう展示してるのか、絵が本当に無いのか判りませんが)、
その当時はそういう題材しか許されなかったからなんでしょうか?社会的に。良家の子女が教養として絵を描く。という枠から飛び出た先は。作品展のタイトル通り
あと女性の描き方って何パターンかあるよねと言うこと。
上村松園風、岡本神草風、梶原の影をつけた様な路線
きれいな中村大三郎の路線
今回展示されませんでしたが、小倉遊亀の路線(抽象画を描く前の前の堂本印象もこの系統でないかと)と
秋野までくると普通の日本画家という気がしますが、これはまた別路線で東山や平山と一緒の外国行って描いてきたで、
あまりそういう物を感じませんが、
話が戻りますが戦前の絵には何かそういう。特に今回の展示では、描き方は多数あれど、対象の数が限りあるというのは
拘束感があるのは確かかと?(これって社会的に圧迫してたからか、ただ単に売れないから、描かなかったのか。
興味が無いから、描かないか)作品展のタイトルにある。担ったもの/担わされたもの通りではないかと
現在でも圧迫感はあるのかもしれませんが、
著名日本画家に女性ってほとんどいませんから、
圧迫感がある。から跳ね除けるとい。そういう感じは受けませんでしたが、この時観た画家達は、きっと良家の子女が教養として絵を描く。という枠と、その絵には出てませんが、戦っていたんだろうなと思いました。絵を描くという行為自体で、
(この圧迫感は絵直接にはあまりあると思いませんが、題材のある種のパターンさ、少なさという点で表れているのでは?)
あとそれとやっぱり、展示されていた画家達は、同時代の男性画家達とは、別の部分の評価があるんじゃないのかなと。
同じ絵を描いていても土俵が違うので勝負させて貰えない。
(女子スポーツを眺めるような)
そういうのを訴えてる絵は無かったと思うけど、後の世にあまり名が残ってない事を思うと描いてる絵の割には評価的が悪いんじゃなかな?院展や日展で賞を獲っていても
画家が生きてた時代ではどうあれ、振り返っての評価では。
考えようによっちゃお買い得という考え方もありますが。
この展示会は内容は人が集まらないマニアックなものですが、
こういう絵をどう考えるのかと訴えかけてくるものがあって良い作品展でした。
国立博物館のほうは上田秋成展でしたが、ポスターがあまり気合入っていませんでした。
片面上田秋成で片面次回の袈裟という節約仕様で
お客も同じくガラガラでした。
内容の方のほうは、やっぱり地味かなぁあと、展示数が少ないような、密度は濃いですが現在工事中なのでしょうがないかもしれなせんが、
特設展というよりは、常設展の拡大くらいの規模なのでは、後半新収蔵品展して、おまけに銅鏡の解説までしてですから、
マジでやる気なら、前期後期の入れ替え無しで、やるのもありだったのでは。
まあ個人的には雨月物語の初版や高橋道八の坐像、応挙の鯉の絵を観れたから満足という事にしとこ
新収蔵品展は須磨コレクションの展示が多かったので中国物が多かったですが、
残念なことに目録には載ってるけど、展示されて無い絵に、観たいのが沢山ありました。
石濤、文伯仁、高其佩、李ゼンと
石濤なんかは真筆なのかとツッコミ入れたいですが、それでも観たい。
というか来年上野コレクション寄贈50周年記念展と園田湖城展があるんですが、
この展示会へのフリでしょうか?観にこんかいという。
そして見事に釣られ観に行く気満々な訳ですが、出品されるんでしょうか?
京都市美術館のは京の閨秀・女流・女性画家‐担ったもの/担わされたものはというタイトルで,女性の画家ばかりだったのですが、
観ていて思ったのは、いきなりえげつない話であれですが
上村松園、秋野不矩、梶原緋佐子はなんとなく値段の方が想像つきますが、他の人はどうなんでしょう?
当時は別として現代では?画家として評価されてるんでしょうか?
あと相変わらず保存が悪いなと
上村松園のはさすがにそんな事はないですが、絵の具の特性もあると思いますが、けど他のちょっと名前が落ちる画家だと
絵の具が剥落したり、茶色いシミやカビが生えてて本当にいつも思うのですが、もうちょっとちゃんと保存してあげたら、という感じでした。
作品観てて思った感想は、女性が女性を(若しくは子供)描く絵が多かったですが、というか男性を描いている絵が無かった様な・・・
(美術館が意識的にそう展示してるのか、絵が本当に無いのか判りませんが)、
その当時はそういう題材しか許されなかったからなんでしょうか?社会的に。良家の子女が教養として絵を描く。という枠から飛び出た先は。作品展のタイトル通り
あと女性の描き方って何パターンかあるよねと言うこと。
上村松園風、岡本神草風、梶原の影をつけた様な路線
きれいな中村大三郎の路線
今回展示されませんでしたが、小倉遊亀の路線(抽象画を描く前の前の堂本印象もこの系統でないかと)と
秋野までくると普通の日本画家という気がしますが、これはまた別路線で東山や平山と一緒の外国行って描いてきたで、
あまりそういう物を感じませんが、
話が戻りますが戦前の絵には何かそういう。特に今回の展示では、描き方は多数あれど、対象の数が限りあるというのは
拘束感があるのは確かかと?(これって社会的に圧迫してたからか、ただ単に売れないから、描かなかったのか。
興味が無いから、描かないか)作品展のタイトルにある。担ったもの/担わされたもの通りではないかと
現在でも圧迫感はあるのかもしれませんが、
著名日本画家に女性ってほとんどいませんから、
圧迫感がある。から跳ね除けるとい。そういう感じは受けませんでしたが、この時観た画家達は、きっと良家の子女が教養として絵を描く。という枠と、その絵には出てませんが、戦っていたんだろうなと思いました。絵を描くという行為自体で、
(この圧迫感は絵直接にはあまりあると思いませんが、題材のある種のパターンさ、少なさという点で表れているのでは?)
あとそれとやっぱり、展示されていた画家達は、同時代の男性画家達とは、別の部分の評価があるんじゃないのかなと。
同じ絵を描いていても土俵が違うので勝負させて貰えない。
(女子スポーツを眺めるような)
そういうのを訴えてる絵は無かったと思うけど、後の世にあまり名が残ってない事を思うと描いてる絵の割には評価的が悪いんじゃなかな?院展や日展で賞を獲っていても
画家が生きてた時代ではどうあれ、振り返っての評価では。
考えようによっちゃお買い得という考え方もありますが。
この展示会は内容は人が集まらないマニアックなものですが、
こういう絵をどう考えるのかと訴えかけてくるものがあって良い作品展でした。
国立博物館のほうは上田秋成展でしたが、ポスターがあまり気合入っていませんでした。
片面上田秋成で片面次回の袈裟という節約仕様で
お客も同じくガラガラでした。
内容の方のほうは、やっぱり地味かなぁあと、展示数が少ないような、密度は濃いですが現在工事中なのでしょうがないかもしれなせんが、
特設展というよりは、常設展の拡大くらいの規模なのでは、後半新収蔵品展して、おまけに銅鏡の解説までしてですから、
マジでやる気なら、前期後期の入れ替え無しで、やるのもありだったのでは。
まあ個人的には雨月物語の初版や高橋道八の坐像、応挙の鯉の絵を観れたから満足という事にしとこ
新収蔵品展は須磨コレクションの展示が多かったので中国物が多かったですが、
残念なことに目録には載ってるけど、展示されて無い絵に、観たいのが沢山ありました。
石濤、文伯仁、高其佩、李ゼンと
石濤なんかは真筆なのかとツッコミ入れたいですが、それでも観たい。
というか来年上野コレクション寄贈50周年記念展と園田湖城展があるんですが、
この展示会へのフリでしょうか?観にこんかいという。
そして見事に釣られ観に行く気満々な訳ですが、出品されるんでしょうか?
柴田是真の作品展の感想
観て思った事は二つ
一つ柴田是真が個性的であること。
今まで破笠、羊幽斉、長寛、本阿弥光悦の作品を観ても
それぞれに個性は感じるけど、物凄くという訳では
無かったけど、今回柴田是真の作品を観たら、
柴田是真の強い個性を感じた。ためか
他の作家の個性が際立ったきがしました。
個別の作品で思った事は、瀬戸写茶入がありましたが、
パッと見たら茶入だけど、よく観たら
肩の部分が竹の節が残っていましたが、
これって是真が意図して残してるのではという気がしました。
これだけ技術持ってたら、もっと自然に作れると思うので、
厚みを持たせるなどしてそういう遊びも込みで作品を作ってたんじゃないかな。気づいた人がニヤッと楽しめるような、
私は判りませんが詳しい人とならもっと細かい部分に気づいて楽しめるじゃないでしょうか?是真が仕掛けたものに、
あと観ていて思い出したのは文展(脳ミソが腐っている為に、記憶違いがあるかも、内国勧業博覧会かも)が当初漆絵や(絵付けなどのその他の絵)と紙に描いた絵を分離した。
(後に美術工芸部門ができますが)
理由は商売敵になりえたから、じゃなかなとも思いました。
西洋に、そういう物が無いから、近代化云々別にして、
これから日本画というものを作ると言うときに、こういうものがあると
邪魔だったんじゃないかな。国の支援とか絵としての権威の面で
もう一つは、なんとなく河鍋暁斎と同じ様な匂いがしました。
江戸と明治に渡って活躍した人の・・・
絵と漆でジャンルが違うのでアレですが
横山大観や竹内栖鳳の同時代に活躍、
若しくはその生徒とは、明らかに作品が違う。(時代的需要か好みか判りませんが)漆芸はあまり観てないので詳しくないですが例えば
山崎覚太郎とは絶対に違うような、
製作意図も作品も
柴田是真は製作するにあたり芸術家の部分が一番最初の部分にくるんじゃなくて、
職人さん、(恐らく注文ありき)物凄い技術、出来る作品。の様な気がする。製作者の高尚な理屈は判りませんが、作品は恐ろしく素晴らしい
多分、漆器のジャンルでは今まで観た中で一番充実した作品だったとおもいます。
本当に頭一つ飛び出ている濃い内容だったとおもいます。
観て思った事は二つ
一つ柴田是真が個性的であること。
今まで破笠、羊幽斉、長寛、本阿弥光悦の作品を観ても
それぞれに個性は感じるけど、物凄くという訳では
無かったけど、今回柴田是真の作品を観たら、
柴田是真の強い個性を感じた。ためか
他の作家の個性が際立ったきがしました。
個別の作品で思った事は、瀬戸写茶入がありましたが、
パッと見たら茶入だけど、よく観たら
肩の部分が竹の節が残っていましたが、
これって是真が意図して残してるのではという気がしました。
これだけ技術持ってたら、もっと自然に作れると思うので、
厚みを持たせるなどしてそういう遊びも込みで作品を作ってたんじゃないかな。気づいた人がニヤッと楽しめるような、
私は判りませんが詳しい人とならもっと細かい部分に気づいて楽しめるじゃないでしょうか?是真が仕掛けたものに、
あと観ていて思い出したのは文展(脳ミソが腐っている為に、記憶違いがあるかも、内国勧業博覧会かも)が当初漆絵や(絵付けなどのその他の絵)と紙に描いた絵を分離した。
(後に美術工芸部門ができますが)
理由は商売敵になりえたから、じゃなかなとも思いました。
西洋に、そういう物が無いから、近代化云々別にして、
これから日本画というものを作ると言うときに、こういうものがあると
邪魔だったんじゃないかな。国の支援とか絵としての権威の面で
もう一つは、なんとなく河鍋暁斎と同じ様な匂いがしました。
江戸と明治に渡って活躍した人の・・・
絵と漆でジャンルが違うのでアレですが
横山大観や竹内栖鳳の同時代に活躍、
若しくはその生徒とは、明らかに作品が違う。(時代的需要か好みか判りませんが)漆芸はあまり観てないので詳しくないですが例えば
山崎覚太郎とは絶対に違うような、
製作意図も作品も
柴田是真は製作するにあたり芸術家の部分が一番最初の部分にくるんじゃなくて、
職人さん、(恐らく注文ありき)物凄い技術、出来る作品。の様な気がする。製作者の高尚な理屈は判りませんが、作品は恐ろしく素晴らしい
多分、漆器のジャンルでは今まで観た中で一番充実した作品だったとおもいます。
本当に頭一つ飛び出ている濃い内容だったとおもいます。
国立近代美術館の感想でも
ボルゲーゼ美術館展もありましたが、パスして常設の村上華岳の話でも
没後70周年と言うことで行われている展示で
国画会にも所属していたので、同会所属の入江波光、
榊原紫峰・土田麦僊・野長瀬晩花などの作品も展示してありました。
村上華岳の絵は纏まって観るのは今回初めてだったのですが、
印象は、仏画と、植物や風景では描き方が随分違いますが。
でも全体の印象としては、ぼわっとしていて溶けて消えてしまいそうな所でしょうか。
くっきり、はっきりではなく
黒い牡丹の絵が展示されていましたが、水墨画の技法で、輪郭線を用いない、
墨の濃淡がしかっかりして、さらに葉や枝と、花に違う技法で描いてあって、
普通なら、それだけ違うなら、下手な画家ならてんでバラバラに
上手なら画家なら、ハッキリした印象。葉と花どちらに重きを置くかで評価変わりますが、
だと思うのですが、村上華岳の絵は本当にぼわっとしている。
でも牡丹の優雅さは消えてない、むしろ品が出て引き立つ。弱弱しい印象は持たない。
村上華岳の個性が出ている絵だと思いました。
あと帰ってから思ったのですが、水墨画に関しては光悦、宗達の様な要素がある様な気がしました。
絵から伝わる。柔らかさ、しなやかさと言った印象が
それと秋刀魚の絵や、鰈の絵や、舞妓や芸妓の絵を描いていましたが
村上華岳と言えば宗教画というイメージがあったので、意外な印象でした。
村上華岳の仏画の妖艶さはこの辺とも関係あるのでは(個人的には妖艶だと思いませんが)
あと舞妓や芸妓の絵の着物の線と水墨画の風景に入れてある線は結構共通点のある。
線ではないかと思いました。
仏画の輪郭線は一種独特のものがあるのでは?
太くもなく細くも無く、激しさもなく、落ち着きも無く。
でも平凡ではない。絵に丸さはあっても舞妓や芸妓の絵を描く時は
まったく違う。丸さと、ぼわっとしてて、ボケてるのかなと思うとそうでなく、
物凄い濃い霧が漂ってる印象でしょうか。
あと自分が前面に出てこないのも特色では?
同じ仏画でも堂本印象や杉本哲郎はテーマ的に仏画を選んでいても、
結構自分と言うのが出ていると思いますが、
前々いく押し出していく感じが
比較的若い年齢での死がこういう印象をもたらすのかと思いましたが、
速水御舟も若く死んでますが、
こういうぼやっとした印象は持たないので、むしろクドイので
やっぱり村上華岳の個性なのではないでしょうか?
あとこういうぼやっとした印象は後の時代の絵にも技法的には違っても観られるので後世に影響を与えた。
点では入江波光、榊原紫峰・土田麦僊・野長瀬晩花なんかより大きいのではないでしょうか?
本日の一言 平山郁夫が亡くなりましたが、今後彼の絵は値段が下がるのか、上がるのか。
どちらでしょう。個人的には下がると思っていますが、どうでしょう。
あと平山郁夫の師匠は前田青邨ですが、
この系譜はこれで途絶えるのかな?それとも登場するのか?
後釜が気になりますね。ポスト平山郁夫は誰だ
ボルゲーゼ美術館展もありましたが、パスして常設の村上華岳の話でも
没後70周年と言うことで行われている展示で
国画会にも所属していたので、同会所属の入江波光、
榊原紫峰・土田麦僊・野長瀬晩花などの作品も展示してありました。
村上華岳の絵は纏まって観るのは今回初めてだったのですが、
印象は、仏画と、植物や風景では描き方が随分違いますが。
でも全体の印象としては、ぼわっとしていて溶けて消えてしまいそうな所でしょうか。
くっきり、はっきりではなく
黒い牡丹の絵が展示されていましたが、水墨画の技法で、輪郭線を用いない、
墨の濃淡がしかっかりして、さらに葉や枝と、花に違う技法で描いてあって、
普通なら、それだけ違うなら、下手な画家ならてんでバラバラに
上手なら画家なら、ハッキリした印象。葉と花どちらに重きを置くかで評価変わりますが、
だと思うのですが、村上華岳の絵は本当にぼわっとしている。
でも牡丹の優雅さは消えてない、むしろ品が出て引き立つ。弱弱しい印象は持たない。
村上華岳の個性が出ている絵だと思いました。
あと帰ってから思ったのですが、水墨画に関しては光悦、宗達の様な要素がある様な気がしました。
絵から伝わる。柔らかさ、しなやかさと言った印象が
それと秋刀魚の絵や、鰈の絵や、舞妓や芸妓の絵を描いていましたが
村上華岳と言えば宗教画というイメージがあったので、意外な印象でした。
村上華岳の仏画の妖艶さはこの辺とも関係あるのでは(個人的には妖艶だと思いませんが)
あと舞妓や芸妓の絵の着物の線と水墨画の風景に入れてある線は結構共通点のある。
線ではないかと思いました。
仏画の輪郭線は一種独特のものがあるのでは?
太くもなく細くも無く、激しさもなく、落ち着きも無く。
でも平凡ではない。絵に丸さはあっても舞妓や芸妓の絵を描く時は
まったく違う。丸さと、ぼわっとしてて、ボケてるのかなと思うとそうでなく、
物凄い濃い霧が漂ってる印象でしょうか。
あと自分が前面に出てこないのも特色では?
同じ仏画でも堂本印象や杉本哲郎はテーマ的に仏画を選んでいても、
結構自分と言うのが出ていると思いますが、
前々いく押し出していく感じが
比較的若い年齢での死がこういう印象をもたらすのかと思いましたが、
速水御舟も若く死んでますが、
こういうぼやっとした印象は持たないので、むしろクドイので
やっぱり村上華岳の個性なのではないでしょうか?
あとこういうぼやっとした印象は後の時代の絵にも技法的には違っても観られるので後世に影響を与えた。
点では入江波光、榊原紫峰・土田麦僊・野長瀬晩花なんかより大きいのではないでしょうか?
本日の一言 平山郁夫が亡くなりましたが、今後彼の絵は値段が下がるのか、上がるのか。
どちらでしょう。個人的には下がると思っていますが、どうでしょう。
あと平山郁夫の師匠は前田青邨ですが、
この系譜はこれで途絶えるのかな?それとも登場するのか?
後釜が気になりますね。ポスト平山郁夫は誰だ
大徳寺の虫干し展の感想でも
一月も前の話ですが
この展示会は年に一日
しかも雨降ったら中止という非常に厳しい条件でしている。
展示会で、私もほぼ一年待ちました。
メインは牧谿の観音猿鶴図かなと思っていたのですが、
行って見ての感想は、
写真だと茶色に劣化した様な色ですが、
実物だと緑傾向の劣化した感じではないかと
あと光の随分印象の変わる絵でした。
それと同じく牧谿筆の竜虎図も出ていましたが、
これは古くて、絵が黒ずんでいるのか、元からこういう色なのか
よく判らない絵でした。
この他にも沢山絵が展示されていて
これまた牧谿筆の芙蓉図やこれは最後に展示されていましたが、
なかなかスキッとしていて良かったです
狩野探幽の維摩居士図や釈迦図や、後付で明兆と描いてある十六羅漢図
や蘆雪《龍虎図》など、蘆雪良かったです。特に龍の絵が
でも今回一番良かったのは虚堂智愚の書が良かったです。
遠くから見ても輝いて見えました。
(私、自慢じゃないですが、書はまったくわからん。けど好みがあるというのは最近気づきました。)
書体の問題ではなく、感じがスッキリしていて、好みだなと思いました。
今回思ったのですが、大きいお寺の虫干し展はゆっくり観れるからお勧めです。妙心寺もそうですが
ガラス無しだし、ゆっくり観れるし人が多いと言っても、混んでる美術館ほどは多くないし、
お寺の建物の中にも入れますし、難点は公開期間の短さでしょうか。事前に調べていくことをお勧めします。
本日の一言
あと後になって気づいたまさかの凡ミス、高桐院の曝凉展に行くの忘れてた。はっははは。また一年待たないと。はぁ~先が長い
一月も前の話ですが
この展示会は年に一日
しかも雨降ったら中止という非常に厳しい条件でしている。
展示会で、私もほぼ一年待ちました。
メインは牧谿の観音猿鶴図かなと思っていたのですが、
行って見ての感想は、
写真だと茶色に劣化した様な色ですが、
実物だと緑傾向の劣化した感じではないかと
あと光の随分印象の変わる絵でした。
それと同じく牧谿筆の竜虎図も出ていましたが、
これは古くて、絵が黒ずんでいるのか、元からこういう色なのか
よく判らない絵でした。
この他にも沢山絵が展示されていて
これまた牧谿筆の芙蓉図やこれは最後に展示されていましたが、
なかなかスキッとしていて良かったです
狩野探幽の維摩居士図や釈迦図や、後付で明兆と描いてある十六羅漢図
や蘆雪《龍虎図》など、蘆雪良かったです。特に龍の絵が
でも今回一番良かったのは虚堂智愚の書が良かったです。
遠くから見ても輝いて見えました。
(私、自慢じゃないですが、書はまったくわからん。けど好みがあるというのは最近気づきました。)
書体の問題ではなく、感じがスッキリしていて、好みだなと思いました。
今回思ったのですが、大きいお寺の虫干し展はゆっくり観れるからお勧めです。妙心寺もそうですが
ガラス無しだし、ゆっくり観れるし人が多いと言っても、混んでる美術館ほどは多くないし、
お寺の建物の中にも入れますし、難点は公開期間の短さでしょうか。事前に調べていくことをお勧めします。
本日の一言
あと後になって気づいたまさかの凡ミス、高桐院の曝凉展に行くの忘れてた。はっははは。また一年待たないと。はぁ~先が長い
まぁ京都では終わりましたが院展の感想でも
今回観てて思ったんですが、結構観に来てる人に、
偏りがありますね。50代以降かなという人は多いですが
40代以下の人が少ないですね。というか大きく欠落している。
展示してる絵に問題あるのか、絵を観る習慣がないのか
判りませんが、このままで大丈夫なんでしょうか。
多分ある年代になったから、絵を観に行くというものでは
無いと思うので、
もうちょっと宣伝、集客を頑張らないと駄目じゃないの
それこそ、この前書いた。
橋本関雪がしていた様な、客の注文受けてその場で描くような、
即興性というか、パフォーマンスの部分が、
絵がそのまま置いてある。言葉で語る以外の要素の
画家ならやっぱり絵で勝負。あまりやり過ぎるとどうかと思いますが、
でも今は無い。要素なので有れば良いと思いますが
でも今の日本画の描き方から考えたら、
そういう描き方しないから、無理なのかなあ。
塗り塗りの貼り付けの絵では。
絵って籠って描くのイメージが強いですが、
でもこういう即興性も同じくらい重要だと思います。
何かしないと着実に衰退していくのでは
客層を見ていたら、若い客は絶対少ないんだから。
それとも盛者必衰で、このジャンルにも衰える時期が来てるのかな?
話しが逸れますが芸大の先生も創画が多いので
絵以外の部分でも衰えてきてるような。
何十年単位で考えれば、今から何十年も前の院展の画家の絵と
現在の絵を比べれれば、絵のテーマや技法はまったく違うのだから、朦朧体や橋本雅邦や下村観山などの様な絵は皆無ですし
もう少し時代が下る。前田青邨や小林古径や奥村土牛なんかの絵も、微妙にあるのかなという気もしますが、要素的は非常に少ないと思うから。
そろそろ切り替わる時期なのかなという気もしますが。ここ数年。
それとも院展というジャンルだけでもっと大きな点で、根本的に日本画は消えゆく運命なんでしょうか。
日本人の生活様式や価値観の変化で、上記した朦朧体や橋本雅邦や下村観山の様な絵を描く画家は現存しない様に
このジャンルもいずれは・・・・。
その時は日本画と言う言葉はどのような絵を示すのでしょう。
今回観てて思ったんですが、結構観に来てる人に、
偏りがありますね。50代以降かなという人は多いですが
40代以下の人が少ないですね。というか大きく欠落している。
展示してる絵に問題あるのか、絵を観る習慣がないのか
判りませんが、このままで大丈夫なんでしょうか。
多分ある年代になったから、絵を観に行くというものでは
無いと思うので、
もうちょっと宣伝、集客を頑張らないと駄目じゃないの
それこそ、この前書いた。
橋本関雪がしていた様な、客の注文受けてその場で描くような、
即興性というか、パフォーマンスの部分が、
絵がそのまま置いてある。言葉で語る以外の要素の
画家ならやっぱり絵で勝負。あまりやり過ぎるとどうかと思いますが、
でも今は無い。要素なので有れば良いと思いますが
でも今の日本画の描き方から考えたら、
そういう描き方しないから、無理なのかなあ。
塗り塗りの貼り付けの絵では。
絵って籠って描くのイメージが強いですが、
でもこういう即興性も同じくらい重要だと思います。
何かしないと着実に衰退していくのでは
客層を見ていたら、若い客は絶対少ないんだから。
それとも盛者必衰で、このジャンルにも衰える時期が来てるのかな?
話しが逸れますが芸大の先生も創画が多いので
絵以外の部分でも衰えてきてるような。
何十年単位で考えれば、今から何十年も前の院展の画家の絵と
現在の絵を比べれれば、絵のテーマや技法はまったく違うのだから、朦朧体や橋本雅邦や下村観山などの様な絵は皆無ですし
もう少し時代が下る。前田青邨や小林古径や奥村土牛なんかの絵も、微妙にあるのかなという気もしますが、要素的は非常に少ないと思うから。
そろそろ切り替わる時期なのかなという気もしますが。ここ数年。
それとも院展というジャンルだけでもっと大きな点で、根本的に日本画は消えゆく運命なんでしょうか。
日本人の生活様式や価値観の変化で、上記した朦朧体や橋本雅邦や下村観山の様な絵を描く画家は現存しない様に
このジャンルもいずれは・・・・。
その時は日本画と言う言葉はどのような絵を示すのでしょう。
橋本関雪展に行った感想でも
橋本関雪は、やっぱり芸達者ですね。
大和絵、歴史画、漢画、動物画、人物画、美人画、風景画、山水画、
それも芥子園画伝などの古典的筆遣い、清代の中国絵画の筆遣い。
近代の日本画家の筆遣い。四条派の様な筆遣い。
与謝蕪村かとツッコミ入れたい絵を描く事が出来るように
本当になんでも出来る。
で、なおかつオリジナリティーもある。オールラウンダー
さすが文展で旧派、新派に出品し同時に賞を受賞した男。
さらに漢学者の家系の人ですから、教養もあって
詩、書もできて、近代の日本の南画家としては、
突出してるんじゃないでしょうか。若干のつくね芋もありますが、
大部分は、独創的。
もしも富岡鉄斎と橋本関雪ならどっちが良いと言われれば
私は橋本関雪押しで
ただケチをつけるなら、オールラウンダーぶりが、
貧乏起用に思える。部分があると私には思えました
動物画なら、西村五雲の方が動物の毛並みの筆の動きは巧いのではないだろうかとか、
山口華楊と比べたら重厚感が無い様な
宗教的なテーマなら、 村上華岳、堂本印象と比べるとどうか。とか
日本画的な絵なら土田麦僊なんかと比べるとどうかとか、
橋本関雪がオリジナリティがというのがあるのは、判るんだけど
そういう一つの得意ジャンルこの人なら、コレというのを持ってる画家と比べると見劣りするのではと?
あと巧さは感じるけど、精神性はあまり感じない画家ではないかと。
この点は堂本印象と比べると特に、
堂本印象もコロコロ絵が変わりますが、
橋本関雪の様な変わり方はしてない。堂本印象絵を観てると本人の中の理屈を感じますが
橋本関雪にはそれがない。
後代の人として観ると、同時代にいたなら、橋本関雪は今度はどんな絵を描くんだという。
芸達者な部分を楽しむ事が出来ますが、死んだ後では不可能なので
なんでも出来る部分が損なに出ているかもしれません。でも普通は
あと10年ぐらい生きていればあれば、この辺煮詰めて、なんか形になった気がしないでもない。
線をシャープに描ける割りには、
表現の仕方がシャープでない。構図的なものだったり、
木の葉の表現だったり、花が、或いは鳥の羽が
(これは表現の好みの問題かもしれないので、難しいですが)
あと構図が単調だと思いますね、大部分が右上が重く左下が軽い構図。
それだけ技術持ってるなら、もっと練れよ。出来るんだから、
展覧会様のサイズの大きい絵だとそうでもないですが、
掛け軸なんかだと、そういう問題がある様な、
売り絵の描き過ぎなんじゃないのという気がしました。
それが得意なだけだったというのではなく、
多分この辺はコロコロ変わる画風や出来るが故の貧乏器用な部分が出ているんじゃないでしょうか?
橋本関雪は、やっぱり芸達者ですね。
大和絵、歴史画、漢画、動物画、人物画、美人画、風景画、山水画、
それも芥子園画伝などの古典的筆遣い、清代の中国絵画の筆遣い。
近代の日本画家の筆遣い。四条派の様な筆遣い。
与謝蕪村かとツッコミ入れたい絵を描く事が出来るように
本当になんでも出来る。
で、なおかつオリジナリティーもある。オールラウンダー
さすが文展で旧派、新派に出品し同時に賞を受賞した男。
さらに漢学者の家系の人ですから、教養もあって
詩、書もできて、近代の日本の南画家としては、
突出してるんじゃないでしょうか。若干のつくね芋もありますが、
大部分は、独創的。
もしも富岡鉄斎と橋本関雪ならどっちが良いと言われれば
私は橋本関雪押しで
ただケチをつけるなら、オールラウンダーぶりが、
貧乏起用に思える。部分があると私には思えました
動物画なら、西村五雲の方が動物の毛並みの筆の動きは巧いのではないだろうかとか、
山口華楊と比べたら重厚感が無い様な
宗教的なテーマなら、 村上華岳、堂本印象と比べるとどうか。とか
日本画的な絵なら土田麦僊なんかと比べるとどうかとか、
橋本関雪がオリジナリティがというのがあるのは、判るんだけど
そういう一つの得意ジャンルこの人なら、コレというのを持ってる画家と比べると見劣りするのではと?
あと巧さは感じるけど、精神性はあまり感じない画家ではないかと。
この点は堂本印象と比べると特に、
堂本印象もコロコロ絵が変わりますが、
橋本関雪の様な変わり方はしてない。堂本印象絵を観てると本人の中の理屈を感じますが
橋本関雪にはそれがない。
後代の人として観ると、同時代にいたなら、橋本関雪は今度はどんな絵を描くんだという。
芸達者な部分を楽しむ事が出来ますが、死んだ後では不可能なので
なんでも出来る部分が損なに出ているかもしれません。でも普通は
あと10年ぐらい生きていればあれば、この辺煮詰めて、なんか形になった気がしないでもない。
線をシャープに描ける割りには、
表現の仕方がシャープでない。構図的なものだったり、
木の葉の表現だったり、花が、或いは鳥の羽が
(これは表現の好みの問題かもしれないので、難しいですが)
あと構図が単調だと思いますね、大部分が右上が重く左下が軽い構図。
それだけ技術持ってるなら、もっと練れよ。出来るんだから、
展覧会様のサイズの大きい絵だとそうでもないですが、
掛け軸なんかだと、そういう問題がある様な、
売り絵の描き過ぎなんじゃないのという気がしました。
それが得意なだけだったというのではなく、
多分この辺はコロコロ変わる画風や出来るが故の貧乏器用な部分が出ているんじゃないでしょうか?
久しぶりに京都市美術館へ行ったのですが、
今回はあまり楽しめませんでした。
展示の具合がイマイチといいましょうか。
作家の一言 / 見者の一見、美術館での一会というタイトルでの展示だったのですが、
その割には、展示物は、好き嫌いあるので言いませんが
情報量が少なかったですね。
もっとこのタイトルでするなら、
ボンと論文や研究成果の展示あって
作品の展示をして欲しかったですね。
どっちみち常設展に来る。客などしれてるのですから、
隣でルーブル展をやっていて、そっちは大繁盛
その内入場制限するかというぐらいでしたが、
こちらは、まさに閑古鳥が鳴いている状態で、
観てる間10人ぐらいの人にしか合わない。
閑散とした。状態だったので、
この際もっとディープにして欲しかったですね。
そしたら、来る客は相変わらずかも知れないけど。
濃い客が来て、少ない客でもまた違う意味になる。気がしますが
年に一回ぐらいでもいいので、展示スペース結構あるんですから。
年間予算が乏しいので、ここが儲け時と
商売に忙しく、そんなこと言うてる。暇はないのかな?
批判的に描きましたが
この意味では、京都市美術館は中身はそんな濃くは
ないけど結構頑張ってる方では、ないでしょうか。
絵の管理は相変わらずシミが出来とるがなですが、
ここも持ってる物に対して、保存とか設備が追いついてないです。
藤井斉成会有鄰館ほどでは、ないですが。
国立近代美術館の方が常設展はいい加減というか。
(国立博物館も、もっと物量で圧倒されるくらい見たい気がしますが)
中身が薄いというか、中途半端な気がします。
写真でやるのか、西洋の近代の絵でやるのか、
日本画でいくのか、造形でいくのか、
焼き物でやるか、日本の油絵でやるのか、
現代アートでいくのか、
いつも思うのですが、この辺が大変中途半端な気がします。
お前は幕の内弁当かと、ツッコミを入れたい。
もっと濃く物量増やしてくれと思います。
そしたらまた違う気がするのですが。
同じ絵を観ても繋がり、変化、独自性、時代などが観えてきて
ほほーと思ったり、考えるものが出てくる気もしますが。
本日の一言 明日選挙ですが、なんも判らんままに、投票日が来るという感じですね。
投票してから、ごちゃごちゃ話しても意味無い気がしますが。
タウンミーティングとか、市民集会形式でしないのでしょうか、
もっと、戦ってよ。言葉や態度を、拳や武器に変えて、
互いに化けの皮を剥ぎ取ってよ。多少へたくそでも我慢して観るから。
党首討論観てて悲しくなるわ。これが実力かと思うと
なんか今回もわけわからんまま流されて行く気がしますが。
これでいいんですかねぇ。大変良くないと思うのですが
この際外国からNick Robinson、Andrew Marr、Jim Lehrer、Brian Ross などの
とか嫌味なキツイ司会者連れてきて、なまっちょろい司会者じゃないくて、
傷口に塩を塗っていくいような、相手を挑発するような
というかTed Koppelは多分今テレビの仕事してないから。
連れてきて、ズバズバ、ダメだししてぶった切っていく、そういう仕事してくれないかな。
選挙がある度にこの話してる気がしますが、
う~ん。なんなんでしょうね。進歩がないと言うか、
嫌になります
今回はあまり楽しめませんでした。
展示の具合がイマイチといいましょうか。
作家の一言 / 見者の一見、美術館での一会というタイトルでの展示だったのですが、
その割には、展示物は、好き嫌いあるので言いませんが
情報量が少なかったですね。
もっとこのタイトルでするなら、
ボンと論文や研究成果の展示あって
作品の展示をして欲しかったですね。
どっちみち常設展に来る。客などしれてるのですから、
隣でルーブル展をやっていて、そっちは大繁盛
その内入場制限するかというぐらいでしたが、
こちらは、まさに閑古鳥が鳴いている状態で、
観てる間10人ぐらいの人にしか合わない。
閑散とした。状態だったので、
この際もっとディープにして欲しかったですね。
そしたら、来る客は相変わらずかも知れないけど。
濃い客が来て、少ない客でもまた違う意味になる。気がしますが
年に一回ぐらいでもいいので、展示スペース結構あるんですから。
年間予算が乏しいので、ここが儲け時と
商売に忙しく、そんなこと言うてる。暇はないのかな?
批判的に描きましたが
この意味では、京都市美術館は中身はそんな濃くは
ないけど結構頑張ってる方では、ないでしょうか。
絵の管理は相変わらずシミが出来とるがなですが、
ここも持ってる物に対して、保存とか設備が追いついてないです。
藤井斉成会有鄰館ほどでは、ないですが。
国立近代美術館の方が常設展はいい加減というか。
(国立博物館も、もっと物量で圧倒されるくらい見たい気がしますが)
中身が薄いというか、中途半端な気がします。
写真でやるのか、西洋の近代の絵でやるのか、
日本画でいくのか、造形でいくのか、
焼き物でやるか、日本の油絵でやるのか、
現代アートでいくのか、
いつも思うのですが、この辺が大変中途半端な気がします。
お前は幕の内弁当かと、ツッコミを入れたい。
もっと濃く物量増やしてくれと思います。
そしたらまた違う気がするのですが。
同じ絵を観ても繋がり、変化、独自性、時代などが観えてきて
ほほーと思ったり、考えるものが出てくる気もしますが。
本日の一言 明日選挙ですが、なんも判らんままに、投票日が来るという感じですね。
投票してから、ごちゃごちゃ話しても意味無い気がしますが。
タウンミーティングとか、市民集会形式でしないのでしょうか、
もっと、戦ってよ。言葉や態度を、拳や武器に変えて、
互いに化けの皮を剥ぎ取ってよ。多少へたくそでも我慢して観るから。
党首討論観てて悲しくなるわ。これが実力かと思うと
なんか今回もわけわからんまま流されて行く気がしますが。
これでいいんですかねぇ。大変良くないと思うのですが
この際外国からNick Robinson、Andrew Marr、Jim Lehrer、Brian Ross などの
とか嫌味なキツイ司会者連れてきて、なまっちょろい司会者じゃないくて、
傷口に塩を塗っていくいような、相手を挑発するような
というかTed Koppelは多分今テレビの仕事してないから。
連れてきて、ズバズバ、ダメだししてぶった切っていく、そういう仕事してくれないかな。
選挙がある度にこの話してる気がしますが、
う~ん。なんなんでしょうね。進歩がないと言うか、
嫌になります
京都市美術館へ絵を観に行ったのですが、
その際に歴史画を何点か、谷口香?や菊池契月などの絵でした
観ていて思ったのですが、
多分それ以外の画家も含めてだと思いますが、
大正、昭和前期に描いてる歴史画は、
戦国時代以前の絵が多い様な気がしますね。
楠木正成とか、平のなんとか、天皇とか
若しくは神代の頃の歴史でも、
ほとんどそれは宗教や伝説じゃないのという絵など。
何故なんだろう。京都画壇の気風なんでしょうか。
復古大和絵派の影響を引きずってる?余談ですが復古大和絵と四条派の関係性ってどんなものなんでしょう?
題材は古典だけど現実の人物に即して写実的に描くという事でやっぱり影響有るのかなあ?
若しくは戦国時代以前でないと、画題として雅や情緒が無いとでも
言われていたのでしょうか、
それとも、その時代では武者絵の様なモノは
画家の仕事ではなく、浮世絵師の仕事という考え方があり、
画家はそんな仕事しません。という様な風潮でもあったのでしょうか
それとも私が見て来た画家の画風とは合わないから、描いてないだけ?
菊池契月には荒々しい。武者は似合わない。
やっぱり色白で、笛や、琵琶なんかでも弾いてる方が似合う。
そういう問題なんでしょうか?
話は変わって文化博物館の白樺派の展示会に行った感想ですが、
白樺派は学習院の人が多いですね。あと旧大名家や公家が
白樺派はなんて判らん名前付けんと、
学習院美術倶楽部とでも、名前変えたら良いのに、
その方が判りやすくて良いのに、
肝心の中身ですが、白樺派が影響を受けた
ルソー、ロートレック、セザンヌの現物が
展示してありましたが、
それらと白樺派の絵を比べると
白樺派の方は絵がこじんまりしていますね。
大胆さが足らんというか、
筆致が激しくないというか。(絵の具が高価だったので、
節約する技法しか無理だったのでしょうか?)
あとみんなが集まった時に描いた。寄せ集めの画帳が展示
してあったのですが、
それを観て私はビックリしました。
だって昔ながらの水墨画や字が描いてあるんだもん。(岸田劉生のが多かったです)
あれだけ西洋に憧れを描いていたのに、ゴッホやセザンヌ、ロダンが
云々かんぬん言っていたのに
君らは江戸時代の文人かとツッコミを入れたくなりました。
というか、それまでの文化の影響ってこの時代だとまだ文人趣味が残っていたんだと実感しました。
それだけ、そういう物があったから、西洋の文化に憧れて活動していたのか?
それとも自分の中や、周りの日本的なものと西洋との融合を図ったのか、
知らず知らずのうちに溢れいたのか。
観ていてなんなんだろうなぁ~と考えてしまいましとさ。
その際に歴史画を何点か、谷口香?や菊池契月などの絵でした
観ていて思ったのですが、
多分それ以外の画家も含めてだと思いますが、
大正、昭和前期に描いてる歴史画は、
戦国時代以前の絵が多い様な気がしますね。
楠木正成とか、平のなんとか、天皇とか
若しくは神代の頃の歴史でも、
ほとんどそれは宗教や伝説じゃないのという絵など。
何故なんだろう。京都画壇の気風なんでしょうか。
復古大和絵派の影響を引きずってる?余談ですが復古大和絵と四条派の関係性ってどんなものなんでしょう?
題材は古典だけど現実の人物に即して写実的に描くという事でやっぱり影響有るのかなあ?
若しくは戦国時代以前でないと、画題として雅や情緒が無いとでも
言われていたのでしょうか、
それとも、その時代では武者絵の様なモノは
画家の仕事ではなく、浮世絵師の仕事という考え方があり、
画家はそんな仕事しません。という様な風潮でもあったのでしょうか
それとも私が見て来た画家の画風とは合わないから、描いてないだけ?
菊池契月には荒々しい。武者は似合わない。
やっぱり色白で、笛や、琵琶なんかでも弾いてる方が似合う。
そういう問題なんでしょうか?
話は変わって文化博物館の白樺派の展示会に行った感想ですが、
白樺派は学習院の人が多いですね。あと旧大名家や公家が
白樺派はなんて判らん名前付けんと、
学習院美術倶楽部とでも、名前変えたら良いのに、
その方が判りやすくて良いのに、
肝心の中身ですが、白樺派が影響を受けた
ルソー、ロートレック、セザンヌの現物が
展示してありましたが、
それらと白樺派の絵を比べると
白樺派の方は絵がこじんまりしていますね。
大胆さが足らんというか、
筆致が激しくないというか。(絵の具が高価だったので、
節約する技法しか無理だったのでしょうか?)
あとみんなが集まった時に描いた。寄せ集めの画帳が展示
してあったのですが、
それを観て私はビックリしました。
だって昔ながらの水墨画や字が描いてあるんだもん。(岸田劉生のが多かったです)
あれだけ西洋に憧れを描いていたのに、ゴッホやセザンヌ、ロダンが
云々かんぬん言っていたのに
君らは江戸時代の文人かとツッコミを入れたくなりました。
というか、それまでの文化の影響ってこの時代だとまだ文人趣味が残っていたんだと実感しました。
それだけ、そういう物があったから、西洋の文化に憧れて活動していたのか?
それとも自分の中や、周りの日本的なものと西洋との融合を図ったのか、
知らず知らずのうちに溢れいたのか。
観ていてなんなんだろうなぁ~と考えてしまいましとさ。
先日爪を割る。身は炸裂
爪は落ちてはいないけど、根元から1センチちょいの所からヒビが入り
踏み込むと痛い。とてもじゃないけど、ソックス、靴を履ける状況ではない。というアクシデントにより、あまり外出できない。
ひきこもり生活を送る事になって、美術館に行けないので
(というわけで京都市美術館で行われる芸大の卒業制作などにもいけてません。4月ぐらいには治るといいのですが、
泉屋博古館の中国絵画の作品に行きたいので)
本当は書く予定が無かったのですが先月行った茶道資料館と堂本印象美術館の感想を
(行ったのが一月ほど前なので、現在とは展示内容が違う可能性があります。また記憶が怪しいです。)
堂本印象は、どちらかと言えば後期の作品が多かったです。
風景へのまなざし 西・東-憧れの欧州紀行の名前通り
前期の日本画描いてますな作品もありましたが
第1回帝展入選の深草や(これは下絵も展示してあって良かったです。)
木華開耶媛など、
でも堂本印象美術館に行く度に、堂本印象には、驚かされますね。
第1回帝展入選の深草や木華開耶媛を観てたら、
後半のモンドリアン風や抽象画や今回のヨーロッパの風景や
お前は横尾忠則かとツッコミ入れたく為るような
を描くとはやっぱり、思えないもん。
(若い頃から多少洋画の影響があるのは感じますが)
あと今回のメインの1952年にヨーロッパに行った時の絵を観ると
やっぱり描くものが変わると作風が変わるのか
明るい佐伯祐三やユトリロの様な時代に若干ズレがありますが、
でもやっぱりあの時代の絵を描いてるなぁと
古き良きパリの面影を感じると言いましょうか。
完全な抽象画ではなく、街や街で生活してる人を描こうとしているのを感じる。絵でした。
あとマットの色に紫が多く使われていましたが、何か作為的な意味があるんでしょうか。
それとも画商がなんとなく、合わせただけで特に意味は無いのでしょうか?
う~ん。記になる
茶道資料館の方は今回のポスターに使われていた。堆朱も良かったです。
ポスターの印象より随分小さかったですが、細かく彫ってあって
あと永楽保全の観た事なかった作品が観れて良かったです。
中国服作るなら是非この配色と図案でという感じの花入とか(口にコバルトブルーを入れてたけど良かったです)
それと安南焼風のとか、
最近思うのですが、呉須の作品は、同じ永楽保全が作ってても結構ムラがありますね。
なんでだろう。コバルト入手の難しさなんでしょうか?
(呉須の綺麗さは和全なんかの方が綺麗ですもんね。いい呉須使ってるなぁと)
それとも、意図的に作る作風に合わして変えてるのか?
技術的な問題なのか?どれなんでしょう。
あと茶道資料館で永楽保全の作品が観れるのは結構意外な感じでした。
ジャンルが違うかなと思っていたんで、
でも楽美術館に行くと結構楽焼でも香合とか作っているから
そんなもんかなと最近思うようになりましたが。
それと最近私の永楽保全とその周辺に対する考え方が変わってきました。
永楽保全は配色の趣味が凄い。と思います。
極彩色の感覚は、どこから来るんだろうと。日本人なのに(赤道に近い国なら判りますが)
中国趣味も入ってるけど、清朝の五彩なんかと似てるかなと思うけど、やっぱり色が違う。
言うなれば古い極彩色と言いましょうか、現代の極彩色とは違う。
仏画や織物の感覚に近い様な気がしますが、
ネタはどこであれ、日本的な感覚がします。
保全の釉薬は絵付けの作品で無い場合は、下地の場合は結構どっぷり付けてる感じがします。
その傾向の作品は薄さの割には、重量感を感じますね。土が楽焼の様な印象だからでしょうか。
あと器を持てば厚みや質感など体験できるのかも知れませんが、
残念ながら不可能なので、どんな感じかしりたいですが、
同時代の作家達と比較すると仁阿弥道八の場合は、道八の方がより日本的だなと思いますが、
仁阿弥道八は仁清と乾山を合体させてそこに京焼を足してさらにシャープにした。感じですが、
そこまでの京焼の感覚は保全には無い気がします。
木米よりかは、日本趣味だし、そこまで煎茶趣味の寂びてる。印象は持ちませんね。
あと文人趣味みたいなものも
あるのは、楽焼だと思いますが、でも楽焼ほど、どんくさく無い様な。
みんな、共通点は見出せるけど、同時に決定的に違う部分も感じられて、
見比べていて、面白いです。
民芸運動の陶芸家達が、みんな共通項を持ちながら、全然違う作品を作るのと同じで
爪は落ちてはいないけど、根元から1センチちょいの所からヒビが入り
踏み込むと痛い。とてもじゃないけど、ソックス、靴を履ける状況ではない。というアクシデントにより、あまり外出できない。
ひきこもり生活を送る事になって、美術館に行けないので
(というわけで京都市美術館で行われる芸大の卒業制作などにもいけてません。4月ぐらいには治るといいのですが、
泉屋博古館の中国絵画の作品に行きたいので)
本当は書く予定が無かったのですが先月行った茶道資料館と堂本印象美術館の感想を
(行ったのが一月ほど前なので、現在とは展示内容が違う可能性があります。また記憶が怪しいです。)
堂本印象は、どちらかと言えば後期の作品が多かったです。
風景へのまなざし 西・東-憧れの欧州紀行の名前通り
前期の日本画描いてますな作品もありましたが
第1回帝展入選の深草や(これは下絵も展示してあって良かったです。)
木華開耶媛など、
でも堂本印象美術館に行く度に、堂本印象には、驚かされますね。
第1回帝展入選の深草や木華開耶媛を観てたら、
後半のモンドリアン風や抽象画や今回のヨーロッパの風景や
お前は横尾忠則かとツッコミ入れたく為るような
を描くとはやっぱり、思えないもん。
(若い頃から多少洋画の影響があるのは感じますが)
あと今回のメインの1952年にヨーロッパに行った時の絵を観ると
やっぱり描くものが変わると作風が変わるのか
明るい佐伯祐三やユトリロの様な時代に若干ズレがありますが、
でもやっぱりあの時代の絵を描いてるなぁと
古き良きパリの面影を感じると言いましょうか。
完全な抽象画ではなく、街や街で生活してる人を描こうとしているのを感じる。絵でした。
あとマットの色に紫が多く使われていましたが、何か作為的な意味があるんでしょうか。
それとも画商がなんとなく、合わせただけで特に意味は無いのでしょうか?
う~ん。記になる
茶道資料館の方は今回のポスターに使われていた。堆朱も良かったです。
ポスターの印象より随分小さかったですが、細かく彫ってあって
あと永楽保全の観た事なかった作品が観れて良かったです。
中国服作るなら是非この配色と図案でという感じの花入とか(口にコバルトブルーを入れてたけど良かったです)
それと安南焼風のとか、
最近思うのですが、呉須の作品は、同じ永楽保全が作ってても結構ムラがありますね。
なんでだろう。コバルト入手の難しさなんでしょうか?
(呉須の綺麗さは和全なんかの方が綺麗ですもんね。いい呉須使ってるなぁと)
それとも、意図的に作る作風に合わして変えてるのか?
技術的な問題なのか?どれなんでしょう。
あと茶道資料館で永楽保全の作品が観れるのは結構意外な感じでした。
ジャンルが違うかなと思っていたんで、
でも楽美術館に行くと結構楽焼でも香合とか作っているから
そんなもんかなと最近思うようになりましたが。
それと最近私の永楽保全とその周辺に対する考え方が変わってきました。
永楽保全は配色の趣味が凄い。と思います。
極彩色の感覚は、どこから来るんだろうと。日本人なのに(赤道に近い国なら判りますが)
中国趣味も入ってるけど、清朝の五彩なんかと似てるかなと思うけど、やっぱり色が違う。
言うなれば古い極彩色と言いましょうか、現代の極彩色とは違う。
仏画や織物の感覚に近い様な気がしますが、
ネタはどこであれ、日本的な感覚がします。
保全の釉薬は絵付けの作品で無い場合は、下地の場合は結構どっぷり付けてる感じがします。
その傾向の作品は薄さの割には、重量感を感じますね。土が楽焼の様な印象だからでしょうか。
あと器を持てば厚みや質感など体験できるのかも知れませんが、
残念ながら不可能なので、どんな感じかしりたいですが、
同時代の作家達と比較すると仁阿弥道八の場合は、道八の方がより日本的だなと思いますが、
仁阿弥道八は仁清と乾山を合体させてそこに京焼を足してさらにシャープにした。感じですが、
そこまでの京焼の感覚は保全には無い気がします。
木米よりかは、日本趣味だし、そこまで煎茶趣味の寂びてる。印象は持ちませんね。
あと文人趣味みたいなものも
あるのは、楽焼だと思いますが、でも楽焼ほど、どんくさく無い様な。
みんな、共通点は見出せるけど、同時に決定的に違う部分も感じられて、
見比べていて、面白いです。
民芸運動の陶芸家達が、みんな共通項を持ちながら、全然違う作品を作るのと同じで
野村美術館と京都市美術館の感想プラスぼやき
2008年12月17日 美術館へ野村美術館と京都市美術館の感想を(ゴタゴタしてて読み難いですが)
野村美術館は、25周年展の後期ということで
前期と劣らず良い物が出てました。
茶入、茶碗、掛け物、茶杓、裂地いずれも豪華でさすがという感じでした。
特に掛け物は雪舟、村田珠光、利休、定家、光悦と宗達の合作の和歌巻
おなか一杯という感じでした。
焼き物も仁阿弥道八、 永楽保全(金襴ただし金箔ではなく金泥)
上杉瓢箪茶入、 交趾大亀香合、(永楽なんかと比べると可愛いらしい淡い感じの)
他にも織田有楽、古田織部、細川幽斎 、藪内剣仲などの
昔の茶人関係の物があり良かったです。
あと淡路屋舟も展示してありましたが、吊るす展示方法で無かったのが残念
京都市美術館は、京都市美術館コレクション展 第3期 ふたつで一つ展
展示内容は古い絵(鈴木松年や森寛斎)から近代の絵までピンきり
結構、構図の考え方や絵の描く順番なんかが判って面白かったです。
お気に入りは菊池契月の少女、近くで観たときは、あらどうしてこの絵、
顎と生え際や他イロイロ赤い線が入れてあるんだろう。
失敗かな、それか下絵の関係かなと思ったのですが、
でも出品してるのが、自分が主催の作品展だから、
こんな中途半端な絵を出品するかなあ?
と思いながら2~3歩後ろに歩くと
不思議なことに、その赤い線が消え、
顔の輪郭や着物が物凄くハッキリ浮き立って
そのための線だったのかと納得しました。
あとこの絵は少女の目線が右、正面、左、どこから観ても
鑑賞者の目に合う様に出来ていて、
構図が物凄く凝った絵で良かったです。
野村美術館と京都市美術館へ行った帰りに思ったのですが、
院展や日展の特賞(若しくは入選)などに、あまり評価を置かなくなったのは、
何時の頃からなんでしょう。
多分昔だったら、文展、帝展の頃ならそれが絶対的な評価なはずだったのに、
(戦前の著名な画家なら恐らく出品してるのに)
近頃は違うような・・・
なんなんでしょうね。これは、
美術団体や、教育機関、国に頼らんと自由に絵を描くぞという事で
優秀な画家が離れてるのか、(私塾系の画家の成果なんでしょうか?)
逆に国から離れないから、残ってるのは、昔ながらというか、
劇的に進化してないなという風に観えるのか。
昔の絵ならこの時観た絵で言うなら、鈴木松年や森寛斎と川端玉章を比べると
時代的に川端玉章の方が登場が遅いと思いますが、
川端玉章と土田麦僊なら、土田麦僊の方が登場が遅いと判りますが、
鈴木松年と森寛斎が、どちらが新しいと問われると非常に難しい
時代が江戸、明治、大正、昭和と変わった様に、まるで時代を反映してるように
絵も物凄く変化してるなと、画家の個性の以外の部分で
例えばテーマや使用してる絵の具の種類、筆法で
判る気がしますが、
でも最近のは判らない様な(あっ、この絵ある画家の影響ある。
若しくはそのものパクリだなとかいうのはありますが・・・)
時代的経過が短すぎるからとか、
同時代を私が生きてるから、鈍感なのか。
そういう風に思う。興味の無さが感覚を鈍らせるのか
とそんな事を思いながらイマイチ纏まらんなと思っていたら、
知り合いから国立近代美術館のチケットを貰ったので代美術への視点——エモーショナル・ドローイング 展へ行ってきたのですが、
コレ観ての感想は、(展示会的にはAditi SINGHとJuliao & Manuel OCAMPOが良かったです。
でも個々の解説が、まったく無くて、これはどういう意図や概念で製作されたのか判らずその辺が不満かな、あと結構剥き身の生々しい作品が多く、観る時の気分によっては、しんどいかも・・・
現代的な作品観る時の難点ってこれじゃないでしょうか?)
話元のぐだぐだに戻しますが、やっぱり日本画というのは、
様式美の一つなんじゃないでしょうか?(若干の時代要素ありの)
作者の国籍は関係なしに絹や紙に岩絵の具で書いていて、
(現代で考えるなら、技法が水墨画や南画と呼ばれる要素の物は省いて)
テーマもある程度決まりきったお決まりのもので
作品の出品が日展や院展なら、日本画と呼ばれる物になるんじゃないのと、例えそれが、外国の絵の影響受けていようが、古画影響受けようが、自分の内面性を表現しようが?(でも日本画は相対的に生々しくないような、後期の堂本印象は日本画家か問われれば?なので違うか?芸術家だとは思うが)
という事でやはり日本画は様式美の一つではないかと、
技法と美術団体と国が作っている。
あと戦前の恐らく日本画というものが最盛期だった頃と近代を比べると
絵を描く才能のある人が必ずしも日本画というジャンルに進んでないという気がします。
職業の多様化、複雑化により、また絵内部での多様化、大きく見るなら芸術活動の多様化で
それと作者の絵に対しての意図や概念が現代の日本画家と、戦前の画家とを比べると弱いような気がします。
多分それは日本画というものに対しての、期待や作ったろういう(技法、思想共に)気概の差なのではないでしょうか?
既得権益団体があまり無かったから、作品、作風を自由に作れた。
既得権益団体がまだ大きくなく、色々な団体があり個人の頑張り次第で上下関係を覆せたというのもあるんじゃないでしょうか?
その勝利者が現代の日本画に繋がっているのではないでしょうか
野村美術館は、25周年展の後期ということで
前期と劣らず良い物が出てました。
茶入、茶碗、掛け物、茶杓、裂地いずれも豪華でさすがという感じでした。
特に掛け物は雪舟、村田珠光、利休、定家、光悦と宗達の合作の和歌巻
おなか一杯という感じでした。
焼き物も仁阿弥道八、 永楽保全(金襴ただし金箔ではなく金泥)
上杉瓢箪茶入、 交趾大亀香合、(永楽なんかと比べると可愛いらしい淡い感じの)
他にも織田有楽、古田織部、細川幽斎 、藪内剣仲などの
昔の茶人関係の物があり良かったです。
あと淡路屋舟も展示してありましたが、吊るす展示方法で無かったのが残念
京都市美術館は、京都市美術館コレクション展 第3期 ふたつで一つ展
展示内容は古い絵(鈴木松年や森寛斎)から近代の絵までピンきり
結構、構図の考え方や絵の描く順番なんかが判って面白かったです。
お気に入りは菊池契月の少女、近くで観たときは、あらどうしてこの絵、
顎と生え際や他イロイロ赤い線が入れてあるんだろう。
失敗かな、それか下絵の関係かなと思ったのですが、
でも出品してるのが、自分が主催の作品展だから、
こんな中途半端な絵を出品するかなあ?
と思いながら2~3歩後ろに歩くと
不思議なことに、その赤い線が消え、
顔の輪郭や着物が物凄くハッキリ浮き立って
そのための線だったのかと納得しました。
あとこの絵は少女の目線が右、正面、左、どこから観ても
鑑賞者の目に合う様に出来ていて、
構図が物凄く凝った絵で良かったです。
野村美術館と京都市美術館へ行った帰りに思ったのですが、
院展や日展の特賞(若しくは入選)などに、あまり評価を置かなくなったのは、
何時の頃からなんでしょう。
多分昔だったら、文展、帝展の頃ならそれが絶対的な評価なはずだったのに、
(戦前の著名な画家なら恐らく出品してるのに)
近頃は違うような・・・
なんなんでしょうね。これは、
美術団体や、教育機関、国に頼らんと自由に絵を描くぞという事で
優秀な画家が離れてるのか、(私塾系の画家の成果なんでしょうか?)
逆に国から離れないから、残ってるのは、昔ながらというか、
劇的に進化してないなという風に観えるのか。
昔の絵ならこの時観た絵で言うなら、鈴木松年や森寛斎と川端玉章を比べると
時代的に川端玉章の方が登場が遅いと思いますが、
川端玉章と土田麦僊なら、土田麦僊の方が登場が遅いと判りますが、
鈴木松年と森寛斎が、どちらが新しいと問われると非常に難しい
時代が江戸、明治、大正、昭和と変わった様に、まるで時代を反映してるように
絵も物凄く変化してるなと、画家の個性の以外の部分で
例えばテーマや使用してる絵の具の種類、筆法で
判る気がしますが、
でも最近のは判らない様な(あっ、この絵ある画家の影響ある。
若しくはそのものパクリだなとかいうのはありますが・・・)
時代的経過が短すぎるからとか、
同時代を私が生きてるから、鈍感なのか。
そういう風に思う。興味の無さが感覚を鈍らせるのか
とそんな事を思いながらイマイチ纏まらんなと思っていたら、
知り合いから国立近代美術館のチケットを貰ったので代美術への視点——エモーショナル・ドローイング 展へ行ってきたのですが、
コレ観ての感想は、(展示会的にはAditi SINGHとJuliao & Manuel OCAMPOが良かったです。
でも個々の解説が、まったく無くて、これはどういう意図や概念で製作されたのか判らずその辺が不満かな、あと結構剥き身の生々しい作品が多く、観る時の気分によっては、しんどいかも・・・
現代的な作品観る時の難点ってこれじゃないでしょうか?)
話元のぐだぐだに戻しますが、やっぱり日本画というのは、
様式美の一つなんじゃないでしょうか?(若干の時代要素ありの)
作者の国籍は関係なしに絹や紙に岩絵の具で書いていて、
(現代で考えるなら、技法が水墨画や南画と呼ばれる要素の物は省いて)
テーマもある程度決まりきったお決まりのもので
作品の出品が日展や院展なら、日本画と呼ばれる物になるんじゃないのと、例えそれが、外国の絵の影響受けていようが、古画影響受けようが、自分の内面性を表現しようが?(でも日本画は相対的に生々しくないような、後期の堂本印象は日本画家か問われれば?なので違うか?芸術家だとは思うが)
という事でやはり日本画は様式美の一つではないかと、
技法と美術団体と国が作っている。
あと戦前の恐らく日本画というものが最盛期だった頃と近代を比べると
絵を描く才能のある人が必ずしも日本画というジャンルに進んでないという気がします。
職業の多様化、複雑化により、また絵内部での多様化、大きく見るなら芸術活動の多様化で
それと作者の絵に対しての意図や概念が現代の日本画家と、戦前の画家とを比べると弱いような気がします。
多分それは日本画というものに対しての、期待や作ったろういう(技法、思想共に)気概の差なのではないでしょうか?
既得権益団体があまり無かったから、作品、作風を自由に作れた。
既得権益団体がまだ大きくなく、色々な団体があり個人の頑張り次第で上下関係を覆せたというのもあるんじゃないでしょうか?
その勝利者が現代の日本画に繋がっているのではないでしょうか
有鄰館と妙心寺の 曝凉展(虫干し)と楽美術館と北村美術館に行った。感想を
有鄰館は
郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ)の絵が展示されていてビビッた。
絵の内容は乾隆帝馬と遊ぶみたいな絵で(表具の縁が傷んでました)
中国人画家との合作で馬と人は西洋画の技法だけど
背景は中国画という内容でした。(郎世寧は任伯年にやっぱり影響与えてるでしょか?)
有鄰館は前回行った時も驚きましたが、
毎回こんな絵も持ってるんかい驚きますね。ここにコレあっていいのかと
マズイんじゃないのと
あと郎世寧は前から名前は知ってけどがこの絵で
http://www.npm.gov.tw/exh94/firstfamily/selections_CH_02.html
イタリア人ということを知ってなかったので驚き。
布教活動、貿易、銭儲けのためやってきたんでしょうか?
康熙帝、雍正帝、乾隆帝と仕えてるようですが、
よく地方に左遷されたり首飛ばなかったと、政変があったら、こういう立場の人は危ういものですが、
画家だし(文士や官僚という扱いではなかったのかな?)外国人だしというので勘弁してもらったのでしょうか?
それと董其昌の月賦が良かったです。
シャープで端正な感じで、董其昌は批判される事も多いですが、
批判されない部分もあるのでは
呉説の遊糸書と比べると、呉説の方が狂気だなという感じですが
でも観てて好きな書でした。
妙心寺の曝凉展は、毎年 11月3日・4日にしてるそうですが
来年は国立博物館で妙心寺展をするので
やらないそうですが、感想を
海北友松の屏風が数点、狩野山楽の有名な龍と虎の屏風、
長谷川等伯の豊干・寒山拾得・山水図座屏
曽我蕭白の掛け軸、飲中八仙図、
狩野探幽の掛け軸、維摩居士と龍と虎
多分意識的に視線が繋がる様に構図を製作してると思います。
あと作品を展示してあった。方丈の襖絵は狩野探幽と狩野益信の筆らしいです。
雲谷等顔の屏風、
伝徽宗筆の鶴と竹とか、他にも伝ですが梁楷、文徴明、孫君沢、牧谿などの作品がありました。
他は妙心寺に関係ある。
宗峰妙超、虚堂智愚、花園法皇などのや印可状や頂相や
仏教に直接関係ある。
六代祖師像、文殊菩薩像、十六羅漢像、メタボな巨大な布袋などがありました。
入場料は1000円でしたが、なかなか充実した。いい作品展じゃないでしょうか。
方丈に入れて探幽の絵観れて、ガラス無しで近くで観れたので、
しいていえば最後に頂いた抹茶があまり美味しくなかった事ぐらいかな。
これは茶道資料館の方が何倍も素晴らしいです。
でも、まぁおまけだしこんなもんでしょう。
楽美術館は長谷川等伯
目的で行ったのですが、この等伯も(松の絵でしたが)
保存が悪くて絵が観難かったです。
国宝の松林図屏風よりまだ観難いです。
ただこの絵は桐の家紋の柄の上に描いてあり、
また印象は違う様な・・・
観てないですが、別の時期に展示されてる。
雲谷等顔の方が良い様な気がします。
茶碗の方は結構楽しかったです。
特に田中宗慶の黒楽が良かったですね。
今まで観た中では一番印象は良かったです。
(同系統の茶碗が長次郎など数点出ていました)
私が今まで観た。黒楽は結構釉薬べっとりの黒光りする。
生々しい感じのそういう茶碗が多かったのですが、
今回観た茶碗はそういう茶碗でなく、
感じ的には備前焼の様な黒楽で、素朴な感じで落ち着いて、
これなら多分この前野村美術館で見た。薮内剣仲の花入れなんかとも
合うんだろうなと納得出来ました。
あと道入の香合が展示されていましたが、
それが良かったです。兎と茅葺の家と屈輪柄のが展示されていましたが。
兎は賞味の話、道八には勝てないかなと思いましたし、
茅葺の家は、あまり趣味じゃないなと思いましたが
屈輪柄のが良かったです。彫って表現してありましたが、
柔らかい印象の中にもシャープさがあって、
いいなぁーと
知識的に今回仕入れたのは5代目の宗入は乾山と従兄弟だった事
これで納得ですね。乾山が楽風の作風のを残していても
楽焼きの一族も法華宗だった事。
これで光悦が楽焼を作ってる。理由が何となく納得。
これも同胞衆の流れの繋がりなんでしょうか?
とまぁ、お勉強になり楽しかったです。
北村美術館は
まず受付の人が変わっていてビックリ出した。
あと四君子庵で茶会が行われていたので、
結構うるさかったです。
でもその代わりに四君子庵は春と秋の展示会の間
何日か公開している。別途1500円いるようですが、
予約無しで観れるという情報を仕入れたので
(今秋の公開日は終わったようですが、私が行った2~3日前に)
来年の春が楽しみ
展示の方はいつもほど、良くなったかなぁ
全体的な印象が
個別には良かったけど。
印象に残ってるのは、中川一政の男の人がロバか馬に乗ってる絵でした
遠目に観たら一瞬、おっ古画が出てる。
という感じでしたが、よくみたら中川一政でした。
他は保全の香合、目録見た時には、きっちり金襴なのかぁと
思ったら結構崩したような、釉薬を掛けて多少筆を加えてるかもしれませんがでも大胆だなぁという。保全はこんなのも作ってるんだという感じで
良かったです。あと青磁と匙も良かったです。
朝鮮唐津の水差しも良かったですね。
派手そうになりそうな印象ですが、
でもそこは抑えて渋く作ってあって
あと高取焼、膳所焼もこんな感じになりますが、
元は朝鮮唐津を目指した作品になるんでしょうか?
それとも逆?どっち
若しくは朝鮮唐津自体が何かの模倣?なのかな?
原羊遊斎の
菊が3つ被せてありましたが、その菊の浮き上がり具合と
特に角の生かし方が巧かったですね。そこを生かして、
避けるとかしないで、
多分胴にだけ仕事すると上蓋だけにするとか、
では、こういう風にならない。大胆な印象でした。
他も結構出ていました。道具物の箱書きや魯山人の秋草文壺や
仏教関連の物など、そんな感じでした。
有鄰館は
郎世寧(ジュゼッペ・カスティリオーネ)の絵が展示されていてビビッた。
絵の内容は乾隆帝馬と遊ぶみたいな絵で(表具の縁が傷んでました)
中国人画家との合作で馬と人は西洋画の技法だけど
背景は中国画という内容でした。(郎世寧は任伯年にやっぱり影響与えてるでしょか?)
有鄰館は前回行った時も驚きましたが、
毎回こんな絵も持ってるんかい驚きますね。ここにコレあっていいのかと
マズイんじゃないのと
あと郎世寧は前から名前は知ってけどがこの絵で
http://www.npm.gov.tw/exh94/firstfamily/selections_CH_02.html
イタリア人ということを知ってなかったので驚き。
布教活動、貿易、銭儲けのためやってきたんでしょうか?
康熙帝、雍正帝、乾隆帝と仕えてるようですが、
よく地方に左遷されたり首飛ばなかったと、政変があったら、こういう立場の人は危ういものですが、
画家だし(文士や官僚という扱いではなかったのかな?)外国人だしというので勘弁してもらったのでしょうか?
それと董其昌の月賦が良かったです。
シャープで端正な感じで、董其昌は批判される事も多いですが、
批判されない部分もあるのでは
呉説の遊糸書と比べると、呉説の方が狂気だなという感じですが
でも観てて好きな書でした。
妙心寺の曝凉展は、毎年 11月3日・4日にしてるそうですが
来年は国立博物館で妙心寺展をするので
やらないそうですが、感想を
海北友松の屏風が数点、狩野山楽の有名な龍と虎の屏風、
長谷川等伯の豊干・寒山拾得・山水図座屏
曽我蕭白の掛け軸、飲中八仙図、
狩野探幽の掛け軸、維摩居士と龍と虎
多分意識的に視線が繋がる様に構図を製作してると思います。
あと作品を展示してあった。方丈の襖絵は狩野探幽と狩野益信の筆らしいです。
雲谷等顔の屏風、
伝徽宗筆の鶴と竹とか、他にも伝ですが梁楷、文徴明、孫君沢、牧谿などの作品がありました。
他は妙心寺に関係ある。
宗峰妙超、虚堂智愚、花園法皇などのや印可状や頂相や
仏教に直接関係ある。
六代祖師像、文殊菩薩像、十六羅漢像、メタボな巨大な布袋などがありました。
入場料は1000円でしたが、なかなか充実した。いい作品展じゃないでしょうか。
方丈に入れて探幽の絵観れて、ガラス無しで近くで観れたので、
しいていえば最後に頂いた抹茶があまり美味しくなかった事ぐらいかな。
これは茶道資料館の方が何倍も素晴らしいです。
でも、まぁおまけだしこんなもんでしょう。
楽美術館は長谷川等伯
目的で行ったのですが、この等伯も(松の絵でしたが)
保存が悪くて絵が観難かったです。
国宝の松林図屏風よりまだ観難いです。
ただこの絵は桐の家紋の柄の上に描いてあり、
また印象は違う様な・・・
観てないですが、別の時期に展示されてる。
雲谷等顔の方が良い様な気がします。
茶碗の方は結構楽しかったです。
特に田中宗慶の黒楽が良かったですね。
今まで観た中では一番印象は良かったです。
(同系統の茶碗が長次郎など数点出ていました)
私が今まで観た。黒楽は結構釉薬べっとりの黒光りする。
生々しい感じのそういう茶碗が多かったのですが、
今回観た茶碗はそういう茶碗でなく、
感じ的には備前焼の様な黒楽で、素朴な感じで落ち着いて、
これなら多分この前野村美術館で見た。薮内剣仲の花入れなんかとも
合うんだろうなと納得出来ました。
あと道入の香合が展示されていましたが、
それが良かったです。兎と茅葺の家と屈輪柄のが展示されていましたが。
兎は賞味の話、道八には勝てないかなと思いましたし、
茅葺の家は、あまり趣味じゃないなと思いましたが
屈輪柄のが良かったです。彫って表現してありましたが、
柔らかい印象の中にもシャープさがあって、
いいなぁーと
知識的に今回仕入れたのは5代目の宗入は乾山と従兄弟だった事
これで納得ですね。乾山が楽風の作風のを残していても
楽焼きの一族も法華宗だった事。
これで光悦が楽焼を作ってる。理由が何となく納得。
これも同胞衆の流れの繋がりなんでしょうか?
とまぁ、お勉強になり楽しかったです。
北村美術館は
まず受付の人が変わっていてビックリ出した。
あと四君子庵で茶会が行われていたので、
結構うるさかったです。
でもその代わりに四君子庵は春と秋の展示会の間
何日か公開している。別途1500円いるようですが、
予約無しで観れるという情報を仕入れたので
(今秋の公開日は終わったようですが、私が行った2~3日前に)
来年の春が楽しみ
展示の方はいつもほど、良くなったかなぁ
全体的な印象が
個別には良かったけど。
印象に残ってるのは、中川一政の男の人がロバか馬に乗ってる絵でした
遠目に観たら一瞬、おっ古画が出てる。
という感じでしたが、よくみたら中川一政でした。
他は保全の香合、目録見た時には、きっちり金襴なのかぁと
思ったら結構崩したような、釉薬を掛けて多少筆を加えてるかもしれませんがでも大胆だなぁという。保全はこんなのも作ってるんだという感じで
良かったです。あと青磁と匙も良かったです。
朝鮮唐津の水差しも良かったですね。
派手そうになりそうな印象ですが、
でもそこは抑えて渋く作ってあって
あと高取焼、膳所焼もこんな感じになりますが、
元は朝鮮唐津を目指した作品になるんでしょうか?
それとも逆?どっち
若しくは朝鮮唐津自体が何かの模倣?なのかな?
原羊遊斎の
菊が3つ被せてありましたが、その菊の浮き上がり具合と
特に角の生かし方が巧かったですね。そこを生かして、
避けるとかしないで、
多分胴にだけ仕事すると上蓋だけにするとか、
では、こういう風にならない。大胆な印象でした。
他も結構出ていました。道具物の箱書きや魯山人の秋草文壺や
仏教関連の物など、そんな感じでした。
京都市美術館の院展と芸術都市パリの100年展と野村美術館と
堂本印象美術館の祈りの形象展の感想を
院展は相変わらず
好み的に好きじゃないなと絵の感じも技法面も、
胡粉で仕上げました。という感じも、
線の絵や没骨の絵があっても、線がビビッてたり
形や墨の使い方がアレだったりと
全体見渡しての印象は劇的には変わらないなと
当分このままじゃないでしょうか。
多少は高齢の画家が無くなったりイロイロあるかもしれませんが
当分はこの路線でそんな印象でした。
芸術都市パリの100年展の方は
結構混んでました。雨降ってた日だったけど。
これから行くなら絶対日を選んで言った方がよろしいかと
絵の方は結構良いのが来てたんじゃないでしょうか?
時代が時代だけあって、結構浮世の影響なんかもあるのかなという絵や、構図的に
後のピカソやマティスを予感させれる絵があったり
かと思えば古い時代の絵タイプのあったり、テーマがキリスト教的だったり、肖像画などの
古いものと新しいものがゴチャゴチャしてる。良い意味で
時代の移行期そんな時代だったのかなと思いました。
個人的に良かったのは、
リュシアン・リエーヴルのピガール広場、ラウル・デュフィの家と庭、モーリス・ドニの一連の作品、
ドニの作品はなんとなくですがルネ・マグリットの絵が
思い浮かぶような作品でした。構図とか絵の具の使い方が
話が逸れますが、日本の近代の画家はこの時代の絵の影響を受けている人が多いですが
その際に、この影響を受けた日本の画家たちは、
ヨーロッパの画家達が浮世絵や琳派、中国趣味、東洋趣味、
自然主義の影響を知っていて、
それの影響を受けて描いていたんでしょうか
それともまったく、知らずに絵を観てなんとなく良いなと思い
若しくは最新の流行だというのだけで後ろの情報を知らずに、描いたんでしょうか
どちらにしても、面白いですよね。
日本から輸出したもので、ヨーロッパは影響受け、
その影響下で制作したものを再度日本が輸入し、輸出した側が今度は影響を与えるんですから、
でも、そこから再度の絵はあまり受けがよくないんだよなぁ
なぜ何でしょう。一次情報ではなく、二次情報だから、
新鮮味と言うか、
自分以外の他人のものが入っていて受けつけ難いものだったんでしょうか?それとも文化的な問題?
それと何となく絵以外の事ですが、クライスラーやエネスコの若い頃やグラッペリがピカソに粘土売りに行っていた子供の頃毎日が移動祝祭日だったパリは頃はこんな日々だったのかなぁ~と過ぎりました
野村美術館は開館25周年記念の館蔵名品展
名前通り良かったです。絵を期待して行くと後悔するかもしれませんが、森一鳳の屏風だけだったので
前期は展示してないようなので、
後期は佐竹本や雪舟などあるようですが、
でも他は凄い豪華、
焼き物関係は大天目や(天目台とセットでの展示でした)
道入の赤楽の若山、永楽保全の茶碗、乾山の鉢
辻与次郎の関係も1点
書は無準師範。宗峰妙超、夢想疎石があったり
坊主関係以外では松花堂や定家、遠州も
同時に藤竹細工展もそちらも良かったです。
籠が編んであったり花入と茶杓があったり、
薮内家の花入が沢山あったんですが、
その中で竹陰という人の竹の花入があったのですが、
ちょっと周りの千利休や剣仲や他の薮内家の物は
どれも渋いのですが、なんか比べると違うなぁと
あまり枯れてなくて、竹林の竹を持ってきた様な印象だなぁと
と思って観てたのですが、
解説読んだら、応挙と池大雅なんかと交流あったと書いてあったのですが、なんとなく納得できました。
それで枯れた感じではなく血が通った様な生々しい印象なのかと
でも今回観た花入で良かったのは一階展示の胡銅口紋六角花入でないかと形が綺麗過ぎる。
見るべきものが沢山あり大変充実した作品展でした。
あと何となくですが野村美術館の世界には
曽我蕭白や長沢芦雪や伊藤若冲は合わないなというのを非常に感じました。
きっと収集した個人の好みの問題だと思いますが、
ギリギリに行ったので終わってしまってアレですが
堂本印象美術館の祈りの形象展の感想を
堂本印象はやっぱり改めて観ると時期によって作風が違いますね。特に一つのテーマで観ると
たらしこみの様な表現してる時期や典型的な日本画描いてる時期や油絵の様な重厚を目指してる時期
(今回の絵なら維摩の絵など)
重厚感はあるけど、絵の具貼り付けではなく色で勝負してる感じでしょうか?絵巻物の様な表現をしている時期、
モンドリアンやカンディンスキーの様な絵を描いてる時期など
本当にコロコロ変わる。同じ人が描いてるとは思えないくらい
でも裏を返せば絵が好きで描いても描いても描き飽きなかったんでしょうね。やりたい事が沢山
年齢を重ねてからでも、作品が劣化コピーの様な感じで描いてる印象はまったくありませんから、
(チャレンジの連続という感じ)
そういう点では堂本印象は本当に凄いと思いますね。
彼の絵についていけるかと言われればつらい。
ものもありますが
京都市美術館コレクション展色−響きと調べと
国立近代美術館のWユージン・スミス展と
細見美術館のインドネシア更紗のすべて展の感想を
京都市美術館の常設展は、
まあいつもと変わらず時代事に展示してあったのですが、
今回観てて思ったのは
展示してあった中では幸野楳嶺はやはり絵のタイプが古いですね。描き方やテーマが
明治や大正の絵ではなく、江戸時代の絵の様な気がしました。
それと、西村五雲の兎の絵と竹内栖鳳の虎の絵は、
輪郭線特に外側の線がまったく一緒の気がしました。
描いてるものは二人全然違いますが、
時代的なものでしょうか?
あと菊池契月の絵が展示してありましたが、
活躍時期が被ってる割には、二人とはリズムが違うなと感じました。
竹内栖鳳の方がより幸野楳嶺に近いような、山元春挙なんかも
やっぱり絵が古い気がしました。今回展示されてませんでしたが橋本関雪にも、これとは違うけど
でも古さを感じます
菊池契月は土田麦僊、上村松園なんかの路線と言われれば納得できますが、
この流れで絵を観ると、徳岡神泉、小野竹喬、堂本印象、金島桂華、榊原紫峰
なんかはだいぶ違いますね。上記の画家とは、時代の経過を感じました。
ただ後半の絵は結構絵が疲れるというかしんどかったです。
暗いというか、それだけ個人の内面をより表現する。職業=画家ではなく多分芸術家=画家になって、自由に仕事出来る。
時代になった証拠なのかもしれませんが
結構生々しくて疲れました。
そういう時に思うのですが絵って、やっぱり画家の内面性(
そんな大層なものじゃなくて、例えば病気してるとか、人生で悩んでるとか、社会的な不満があるとか
そういうものが、やっぱり出るもんじゃないでしょうか?
気分を変えに国立近代美術館へ
Wユージン・スミスの写真は意識して見るのは多分は初めてだと思いますね。
作品の全体の印象は組曲みたいな感じかな?
多分一枚一枚だけを見ると私の中ではブレッソンほどのインパクトは無いですが、
劇的な構図の美しさ、幾何学の美しさみたいなものは
逆に、泥臭さの様なものを感じますね。
でも一つのテーマ事に見ると、シュバイツァー博士、スペイン、水俣、太平洋戦争など
テーマ事に多分作者が訴えかけたい事やそのテーマの全体を提示している様な
物が浮かび上がり、その浮かび上がった物をまた繋がるとより大きな一つの物が出来上がる。
多分それはW・ユージン・スミスの思想や写真に対してどういう風に考えていたか、
なぜその写真を撮ったのか、対象との距離や
そういうものではないでしょうか。ただの雑誌の一枚の写真ではなく
作品展の前説みたいなものに、
そういう主観性みたいなものが、フォトジャーナリズムと合わないみたいな批判があるとありましたが、
それは、確かにそういう部分もあるのかもしれませんが、
しかし写真を撮るという行為自体が主観だし、仮にそういう主観が入っていても
それを上回るだけのものが彼の写真にはあるんじゃないでしょうか?
特に大きな目で物事の流れを捉えるという能力は素晴らしいと思いました。
多分大きいから色々余分なものが入りこみ、(本人の主観や踏み込みすぎというのが)批判を呼ぶんだろうけど。
大きい目で捉えようとする限りは、それは無理なんではないでしょうか?
対象を深く理解するためには、相手の情報も踏み込むことも必要だし
小さい目ではそういう表現は無理だと思うので、この辺はその部分は切り取り不可能な部分じゃないでしょうか。
こういう写真撮る限りは・・・
W・ユージン・スミスの大きい目は対象に対して同じように働くんだけど、
そこには薬の副作用みたいなものがあって、薬は常に同じように働くけど効果が色々出て、
簡単に言うと仮に緊張を解く薬があるとしたら、緊張を解くかもしれないけど、反面眠たくなるとか頭がぼーっとするとか
それが体にとって都合が良い、悪いは、その人のその時の体調次第な部分があるんじゃないでしょうか。
ユージン・スミスの場合のそういう主観的な要素は良く見れば今回私が感じた様な事だと思うけど
でも例えばナチスが使った様な使い方や、人種差別の使うとか、そういう政治報道に使うならやっぱり問題な様な・・・
(意識的、無意識関係なく)
でも、その部分を最終的に悪いと見るか良いと見るかは批評家の問題であって、
W・ユージン・スミスの写真の問題では無いと思いますが。それに最終的にプラスの方に転ぶなら・・・
フォトジャーナリズム的には主観があるって問題がなのかもしれないけど、
W・ユージン・スミスの個人の写真としてはなんら問題ないと思いますが私は
インドネシア更紗のすべて展は
インドネシア更紗(通称バティックと呼ぶそうです)というのは多分初見だと思います。
柄のモチーフが面白かったですね。
植物やガルーダを模した古典的な柄もあるなと思えば、
扇子を描いた中国趣味なものやヨーロッパ趣味、飛行機が描かれていたり
着物の帯になっていたり
かと思えばトラジャ更紗は世界樹が描いてあって、(どんな世界観で話なんでしょう)
極めて宗教的、儀式的、王権との関係があるものがあったり、
ただの装身具や綺麗な布としての要素だけでなく、
そういう儀式や象徴の要素もあるのかと知れて面白かったです
あと配色もまったく知らない配色でこういう組み合わせもあるのかと興味深かったです
国立近代美術館のWユージン・スミス展と
細見美術館のインドネシア更紗のすべて展の感想を
京都市美術館の常設展は、
まあいつもと変わらず時代事に展示してあったのですが、
今回観てて思ったのは
展示してあった中では幸野楳嶺はやはり絵のタイプが古いですね。描き方やテーマが
明治や大正の絵ではなく、江戸時代の絵の様な気がしました。
それと、西村五雲の兎の絵と竹内栖鳳の虎の絵は、
輪郭線特に外側の線がまったく一緒の気がしました。
描いてるものは二人全然違いますが、
時代的なものでしょうか?
あと菊池契月の絵が展示してありましたが、
活躍時期が被ってる割には、二人とはリズムが違うなと感じました。
竹内栖鳳の方がより幸野楳嶺に近いような、山元春挙なんかも
やっぱり絵が古い気がしました。今回展示されてませんでしたが橋本関雪にも、これとは違うけど
でも古さを感じます
菊池契月は土田麦僊、上村松園なんかの路線と言われれば納得できますが、
この流れで絵を観ると、徳岡神泉、小野竹喬、堂本印象、金島桂華、榊原紫峰
なんかはだいぶ違いますね。上記の画家とは、時代の経過を感じました。
ただ後半の絵は結構絵が疲れるというかしんどかったです。
暗いというか、それだけ個人の内面をより表現する。職業=画家ではなく多分芸術家=画家になって、自由に仕事出来る。
時代になった証拠なのかもしれませんが
結構生々しくて疲れました。
そういう時に思うのですが絵って、やっぱり画家の内面性(
そんな大層なものじゃなくて、例えば病気してるとか、人生で悩んでるとか、社会的な不満があるとか
そういうものが、やっぱり出るもんじゃないでしょうか?
気分を変えに国立近代美術館へ
Wユージン・スミスの写真は意識して見るのは多分は初めてだと思いますね。
作品の全体の印象は組曲みたいな感じかな?
多分一枚一枚だけを見ると私の中ではブレッソンほどのインパクトは無いですが、
劇的な構図の美しさ、幾何学の美しさみたいなものは
逆に、泥臭さの様なものを感じますね。
でも一つのテーマ事に見ると、シュバイツァー博士、スペイン、水俣、太平洋戦争など
テーマ事に多分作者が訴えかけたい事やそのテーマの全体を提示している様な
物が浮かび上がり、その浮かび上がった物をまた繋がるとより大きな一つの物が出来上がる。
多分それはW・ユージン・スミスの思想や写真に対してどういう風に考えていたか、
なぜその写真を撮ったのか、対象との距離や
そういうものではないでしょうか。ただの雑誌の一枚の写真ではなく
作品展の前説みたいなものに、
そういう主観性みたいなものが、フォトジャーナリズムと合わないみたいな批判があるとありましたが、
それは、確かにそういう部分もあるのかもしれませんが、
しかし写真を撮るという行為自体が主観だし、仮にそういう主観が入っていても
それを上回るだけのものが彼の写真にはあるんじゃないでしょうか?
特に大きな目で物事の流れを捉えるという能力は素晴らしいと思いました。
多分大きいから色々余分なものが入りこみ、(本人の主観や踏み込みすぎというのが)批判を呼ぶんだろうけど。
大きい目で捉えようとする限りは、それは無理なんではないでしょうか?
対象を深く理解するためには、相手の情報も踏み込むことも必要だし
小さい目ではそういう表現は無理だと思うので、この辺はその部分は切り取り不可能な部分じゃないでしょうか。
こういう写真撮る限りは・・・
W・ユージン・スミスの大きい目は対象に対して同じように働くんだけど、
そこには薬の副作用みたいなものがあって、薬は常に同じように働くけど効果が色々出て、
簡単に言うと仮に緊張を解く薬があるとしたら、緊張を解くかもしれないけど、反面眠たくなるとか頭がぼーっとするとか
それが体にとって都合が良い、悪いは、その人のその時の体調次第な部分があるんじゃないでしょうか。
ユージン・スミスの場合のそういう主観的な要素は良く見れば今回私が感じた様な事だと思うけど
でも例えばナチスが使った様な使い方や、人種差別の使うとか、そういう政治報道に使うならやっぱり問題な様な・・・
(意識的、無意識関係なく)
でも、その部分を最終的に悪いと見るか良いと見るかは批評家の問題であって、
W・ユージン・スミスの写真の問題では無いと思いますが。それに最終的にプラスの方に転ぶなら・・・
フォトジャーナリズム的には主観があるって問題がなのかもしれないけど、
W・ユージン・スミスの個人の写真としてはなんら問題ないと思いますが私は
インドネシア更紗のすべて展は
インドネシア更紗(通称バティックと呼ぶそうです)というのは多分初見だと思います。
柄のモチーフが面白かったですね。
植物やガルーダを模した古典的な柄もあるなと思えば、
扇子を描いた中国趣味なものやヨーロッパ趣味、飛行機が描かれていたり
着物の帯になっていたり
かと思えばトラジャ更紗は世界樹が描いてあって、(どんな世界観で話なんでしょう)
極めて宗教的、儀式的、王権との関係があるものがあったり、
ただの装身具や綺麗な布としての要素だけでなく、
そういう儀式や象徴の要素もあるのかと知れて面白かったです
あと配色もまったく知らない配色でこういう組み合わせもあるのかと興味深かったです
もう終わってしまいましたが杉本哲郎のアジャンタ・シーギリヤ壁画模写展に行ってきました。
やはり色彩が非常に鮮やかでした。ニスを塗って修復する前の絵を手本に描いてるという事で
それでいて極彩色系の割には絵が凄く上品で、(杉本哲郎の力か元の絵の力か判りませんが)
久しぶりに岩絵の具の良さを上手に使った良い作品に出会えた気がしました。
多分この壁画が描かれた頃とは違うけど、
でもなんとなく過去の時代の絵をそのまま現代に持ってきて観てる様なそんな印象でした。
感覚的にただ単に古画観てるなぁという感じなく、確かにそういう要素もあるんだけど違う。
杉本哲郎個人としての絵と壁画としてまた宗教画としてのの文化財両方を内包している。そんな絵なんじゃないでしょうか
あとこの時代って結構仏画や人物が描いていますよね。
仏画なら村上華岳やら堂本印象やら人物なら小林古径やら菊池芳文など他多数過去の歴史上の人物など
解説に杉本哲郎は師匠の山元春挙から破門になって独自の道を歩んだとありましたが、
そういう時代的な流れもあったんだでしょうか。
今回観て気づいたけどそういう人物画というのは、この時代では比較的新しい部類の絵なんだというのを感じました。
普段何気なく京都市美術館なんかに行くと結構展示されてるので気づきませんでしたが
まとめてあるので、それが普通だと、でもよく考えれば
今まで絵を観てきた経験上そういう描き方するのって、この時代独特の物ではないでしょうか。
きっと西洋に影響された新しい絵だったんだと思います。
江戸時代では、まず観た事ない絵ですから。浮世絵の美人画や役者絵に近い様な気がしますが、何となく違う気がします。
こちらは風俗画という感じで、頂相は僧だけで、物語性や文学性や世俗的な影響を感じさせないので、
これもまた違う様な・・・何か物語性がある様なそんな気がしました。
それとも仏画や人物を描く流れは小林古径が大英博物館へ女史箴図巻を模写したようにそういう文化事業的な
若しくは岡倉天心のアジアみな兄弟的な政治的な要素があったんでしょうか?
明治期の廃仏毀釈の反動?
他の常設展は海北友松の基準作品が観れたのが良かったです。
狩野尚信の絵はやっぱり兄弟の探幽と比べると劣るなと、
雲とか空間表現のやり方は結構巧いと思ったんですが、
他の配置がイマイチのそんな絵でした。
菱田春草の絵を保有してるのは意外な感じでした。
普段明治期の絵って展示してないので
中国絵画コーナーは李唐の絵が良かったです。
あと京焼コーナーが相変わらず充実してるなと、
それと天目茶碗は玳玻天目は凄く良いけど、
もう一つの茶碗はこれと比べると見劣りしてる気が
前はもっと別の茶碗が展示されてたと思うのですが・・・
そんな展示会でした。
やはり色彩が非常に鮮やかでした。ニスを塗って修復する前の絵を手本に描いてるという事で
それでいて極彩色系の割には絵が凄く上品で、(杉本哲郎の力か元の絵の力か判りませんが)
久しぶりに岩絵の具の良さを上手に使った良い作品に出会えた気がしました。
多分この壁画が描かれた頃とは違うけど、
でもなんとなく過去の時代の絵をそのまま現代に持ってきて観てる様なそんな印象でした。
感覚的にただ単に古画観てるなぁという感じなく、確かにそういう要素もあるんだけど違う。
杉本哲郎個人としての絵と壁画としてまた宗教画としてのの文化財両方を内包している。そんな絵なんじゃないでしょうか
あとこの時代って結構仏画や人物が描いていますよね。
仏画なら村上華岳やら堂本印象やら人物なら小林古径やら菊池芳文など他多数過去の歴史上の人物など
解説に杉本哲郎は師匠の山元春挙から破門になって独自の道を歩んだとありましたが、
そういう時代的な流れもあったんだでしょうか。
今回観て気づいたけどそういう人物画というのは、この時代では比較的新しい部類の絵なんだというのを感じました。
普段何気なく京都市美術館なんかに行くと結構展示されてるので気づきませんでしたが
まとめてあるので、それが普通だと、でもよく考えれば
今まで絵を観てきた経験上そういう描き方するのって、この時代独特の物ではないでしょうか。
きっと西洋に影響された新しい絵だったんだと思います。
江戸時代では、まず観た事ない絵ですから。浮世絵の美人画や役者絵に近い様な気がしますが、何となく違う気がします。
こちらは風俗画という感じで、頂相は僧だけで、物語性や文学性や世俗的な影響を感じさせないので、
これもまた違う様な・・・何か物語性がある様なそんな気がしました。
それとも仏画や人物を描く流れは小林古径が大英博物館へ女史箴図巻を模写したようにそういう文化事業的な
若しくは岡倉天心のアジアみな兄弟的な政治的な要素があったんでしょうか?
明治期の廃仏毀釈の反動?
他の常設展は海北友松の基準作品が観れたのが良かったです。
狩野尚信の絵はやっぱり兄弟の探幽と比べると劣るなと、
雲とか空間表現のやり方は結構巧いと思ったんですが、
他の配置がイマイチのそんな絵でした。
菱田春草の絵を保有してるのは意外な感じでした。
普段明治期の絵って展示してないので
中国絵画コーナーは李唐の絵が良かったです。
あと京焼コーナーが相変わらず充実してるなと、
それと天目茶碗は玳玻天目は凄く良いけど、
もう一つの茶碗はこれと比べると見劣りしてる気が
前はもっと別の茶碗が展示されてたと思うのですが・・・
そんな展示会でした。
文化博物館の美の探訪展を観に行ってのを感想を
内容のほうはモンドリアン風だなと思ったり
池田遥邨の縦方絵の構図は凄く変わってるなとか、
(2種類の角度からの風景が物凄く上手に融合してる。
普通だったら絶対変になるのに、その割には凄く安定してるというか
絵が穏やかなのは何故?)
金島桂華と宇田荻邨が非常に似た構図で描いてるなとか
池田遙邨の雨の大阪と似ている絵も
お前は福田平八郎かという様な絵があったり、
日本画家は植物を手前に持ってきて後ろに風景描くのが好きだなとか
ある程度同じ傾向みたいなのがあるなぁと。
(ある絵と構図が似るのは何故黄金比的な問題?
また構図に普遍性みたいなものがありますが、それはどうやって認められる?
画家仲間で、世間で、また流行の衰退の原因は?)
例えば絵から感じるその時代の流行や、多分習ってる学校が一緒、同じ会に属してる。
一緒の時間を過ごしていたんだなと思ったり
使ってる絵の具が一緒とかそんな事を思いながらみてたら思い浮かんだのですが
画家というのは必ずしも創造的な絵でなくても画家ではないのか?
また近代の中には画家とは呼ばれていますが、
内容はどちらかといえば芸術活動イコール画家ではない。
そういう画家もいるのではないのかということです。
多分そちら側の方が多いのでは・・・(それに関しては特に否定的に捉えるというのでありません)
個人に注目したらそんな風には見えないかもしれませんが、
より大きく見た場合には例えば美術団体で、時代で、絵の具で、絵の表現方法で、
画家と言うのは、実は創造性、芸術性云々より、(何を創造性、芸術性と呼ぶかは難しいですか)
実は伝統産業ちっくなのではないかと、工芸とかより職業的な要素があるのでは・・・
前時代の物を非常に受け継いでいて
例えばカリキュラムは違うかもしれないけど、学校である先生の弟子筋に絵を習い。
多分一昔前の京都芸大なら何世代も遡らなくてはいけないけど、
最終的には応挙若しくは呉春に行き着くのでは?油絵なら浅井忠へ
どんなに近代化を謳っていても、(というか絵を各行為自体が洞窟壁画などがある事を思うと、
それだけで伝統的などでは・・・話がぶっ飛び過ぎですが、)
同じ美術団体に属したり、作品の模倣や同じ絵の具を使うことにより、
結構江戸時代の狩野派と同じ様な要素があるのでは・・・
権力との距離感などは違いがあると思いますが、
(食べるためにそういう手堅いカタチになったんでしょうか?)
あと権力持ってる組織は、自分達の存在価値に重きを置く限りは
まったく異質なものが出てきた場合やはり排除するのでは・・・
排除とまではいかないまでも、低い評価をするとか、
器用な人はそういうのと上手に折り合いつけて、
新旧まぜこぜ、ひっつけくっけするのかもしれません。
結構そういうもので、ガチガチに縛られてるのではと
創造性、芸術性を謳う割には、だからこそ創造性、芸術性を謳うのかもしれませんが、
(美術団体が分裂しやすいのはこの辺が理由か?また団体が出来易いのも)
芸術活動って個人の部分が大きい様な気がしますが
実は、個人と同じくらい伝統や組織の部分があるのではと思いました。
内容のほうはモンドリアン風だなと思ったり
池田遥邨の縦方絵の構図は凄く変わってるなとか、
(2種類の角度からの風景が物凄く上手に融合してる。
普通だったら絶対変になるのに、その割には凄く安定してるというか
絵が穏やかなのは何故?)
金島桂華と宇田荻邨が非常に似た構図で描いてるなとか
池田遙邨の雨の大阪と似ている絵も
お前は福田平八郎かという様な絵があったり、
日本画家は植物を手前に持ってきて後ろに風景描くのが好きだなとか
ある程度同じ傾向みたいなのがあるなぁと。
(ある絵と構図が似るのは何故黄金比的な問題?
また構図に普遍性みたいなものがありますが、それはどうやって認められる?
画家仲間で、世間で、また流行の衰退の原因は?)
例えば絵から感じるその時代の流行や、多分習ってる学校が一緒、同じ会に属してる。
一緒の時間を過ごしていたんだなと思ったり
使ってる絵の具が一緒とかそんな事を思いながらみてたら思い浮かんだのですが
画家というのは必ずしも創造的な絵でなくても画家ではないのか?
また近代の中には画家とは呼ばれていますが、
内容はどちらかといえば芸術活動イコール画家ではない。
そういう画家もいるのではないのかということです。
多分そちら側の方が多いのでは・・・(それに関しては特に否定的に捉えるというのでありません)
個人に注目したらそんな風には見えないかもしれませんが、
より大きく見た場合には例えば美術団体で、時代で、絵の具で、絵の表現方法で、
画家と言うのは、実は創造性、芸術性云々より、(何を創造性、芸術性と呼ぶかは難しいですか)
実は伝統産業ちっくなのではないかと、工芸とかより職業的な要素があるのでは・・・
前時代の物を非常に受け継いでいて
例えばカリキュラムは違うかもしれないけど、学校である先生の弟子筋に絵を習い。
多分一昔前の京都芸大なら何世代も遡らなくてはいけないけど、
最終的には応挙若しくは呉春に行き着くのでは?油絵なら浅井忠へ
どんなに近代化を謳っていても、(というか絵を各行為自体が洞窟壁画などがある事を思うと、
それだけで伝統的などでは・・・話がぶっ飛び過ぎですが、)
同じ美術団体に属したり、作品の模倣や同じ絵の具を使うことにより、
結構江戸時代の狩野派と同じ様な要素があるのでは・・・
権力との距離感などは違いがあると思いますが、
(食べるためにそういう手堅いカタチになったんでしょうか?)
あと権力持ってる組織は、自分達の存在価値に重きを置く限りは
まったく異質なものが出てきた場合やはり排除するのでは・・・
排除とまではいかないまでも、低い評価をするとか、
器用な人はそういうのと上手に折り合いつけて、
新旧まぜこぜ、ひっつけくっけするのかもしれません。
結構そういうもので、ガチガチに縛られてるのではと
創造性、芸術性を謳う割には、だからこそ創造性、芸術性を謳うのかもしれませんが、
(美術団体が分裂しやすいのはこの辺が理由か?また団体が出来易いのも)
芸術活動って個人の部分が大きい様な気がしますが
実は、個人と同じくらい伝統や組織の部分があるのではと思いました。
藤井斉成会有鄰館へ行ったの感想を
ここの美術館は定時には月に2回しか営業してない。
しかも1月8月は休み開業時間は12時から3時という厳しさで
なかなか行けなかったのですが、
その一方で建物の珍妙さが妙に気になる。場所は観世会館の隣
でもいけないという状況が続きましたが
このたび初めて行けました。
入り口は高麗美術館風で、建物の中は外見の中国風とは違い。
洋風でした。内装は中国趣味でしたが、
多分大正時代の建築好きならいいんじゃないでしょうか。
あと建物時代が古いのでハウスダストやダニアレルギーがある人はお勧めできないかな?
その代わり展示物は凄く良かったです。
乾隆帝愛用の玉の香炉、璽印、袍
他は印譜、文房具、青銅器、楽器、焼き物も結構。
唐三彩やら清代の物が。
焼き物は好みのが少なかったですが、でも清代の色彩の強い焼き物が好きな人は楽しめると思います。
それと今回気づいたのは自分の中で今のところ硯はあまり興味ないなと
書は、春秋経、蘇軾、黄庭堅、鮮干枢、王鐸、王震、呉昌碩
絵は許道寧や沈南蘋、呉昌碩、第二館の方には円山応挙、谷文晁、階段の所に額縁で展示してあって不思議な気分でした。
ちなみに額に応挙の絵を入れて展示してあるのは初めて見る展示方法です。
石他仏や厨子も多数(床抜けないか心配・・・)
物凄い文物趣味な展示となっていました。
(戦前に収集したらしい物らしいけど、どうやって集めてきたんだろうという物ばかりというかその内中国政府に訴訟起こされないか?パルテノン神殿のレリーフみたいに
そもそも合法的に集めたのかどうかその辺も謎?)
あと個人的にツボだったのが展示ケースがご立派
だから文物が好きな人は凄く楽しめると思います。
興味無いと凄く辛いかもしれませんが
それと文物収集と言う意味では凄く充実してるけど、
歴史的、博物学とか学術的に展示してあるかと言われれば?かな。個人の文物趣味の展示としては凄いかもしれませんが。
でも木村蒹葭堂とかも、きっとこんな感じで集めてたのかなと
そういう気分は味わえます。
ただ一方で保存が悪いのかどれも結構痛みが激しい様な特に石仏や象嵌関係は。
多分ここにあるより国立博物館なんかに入った方が良い様な・・・
というか昔ここの家が凄く金持ちだった時はそういう保存とかも出来たんだろうけど、戦後世の中変わって、持ってる物に対して追いつけてない。そんな感じでした。
ここの美術館は定時には月に2回しか営業してない。
しかも1月8月は休み開業時間は12時から3時という厳しさで
なかなか行けなかったのですが、
その一方で建物の珍妙さが妙に気になる。場所は観世会館の隣
でもいけないという状況が続きましたが
このたび初めて行けました。
入り口は高麗美術館風で、建物の中は外見の中国風とは違い。
洋風でした。内装は中国趣味でしたが、
多分大正時代の建築好きならいいんじゃないでしょうか。
あと建物時代が古いのでハウスダストやダニアレルギーがある人はお勧めできないかな?
その代わり展示物は凄く良かったです。
乾隆帝愛用の玉の香炉、璽印、袍
他は印譜、文房具、青銅器、楽器、焼き物も結構。
唐三彩やら清代の物が。
焼き物は好みのが少なかったですが、でも清代の色彩の強い焼き物が好きな人は楽しめると思います。
それと今回気づいたのは自分の中で今のところ硯はあまり興味ないなと
書は、春秋経、蘇軾、黄庭堅、鮮干枢、王鐸、王震、呉昌碩
絵は許道寧や沈南蘋、呉昌碩、第二館の方には円山応挙、谷文晁、階段の所に額縁で展示してあって不思議な気分でした。
ちなみに額に応挙の絵を入れて展示してあるのは初めて見る展示方法です。
石他仏や厨子も多数(床抜けないか心配・・・)
物凄い文物趣味な展示となっていました。
(戦前に収集したらしい物らしいけど、どうやって集めてきたんだろうという物ばかりというかその内中国政府に訴訟起こされないか?パルテノン神殿のレリーフみたいに
そもそも合法的に集めたのかどうかその辺も謎?)
あと個人的にツボだったのが展示ケースがご立派
だから文物が好きな人は凄く楽しめると思います。
興味無いと凄く辛いかもしれませんが
それと文物収集と言う意味では凄く充実してるけど、
歴史的、博物学とか学術的に展示してあるかと言われれば?かな。個人の文物趣味の展示としては凄いかもしれませんが。
でも木村蒹葭堂とかも、きっとこんな感じで集めてたのかなと
そういう気分は味わえます。
ただ一方で保存が悪いのかどれも結構痛みが激しい様な特に石仏や象嵌関係は。
多分ここにあるより国立博物館なんかに入った方が良い様な・・・
というか昔ここの家が凄く金持ちだった時はそういう保存とかも出来たんだろうけど、戦後世の中変わって、持ってる物に対して追いつけてない。そんな感じでした。
だいぶ前ですが連休中行った美術館の感想を
今回は北村美術館、細見美術館、泉屋博古館、野村美術館と行ってきました。
北村美術館は今回はイマイチぴんとこず
パンフレットになってる棗も写真の方が綺麗な様な・・・
というかいつもここは、写真の撮り方が綺麗過ぎる気がします。
花入、茶杓、香合、盆は良かったです。
細見美術館は今回久しぶりにツボな展示会でした。久しぶりに絵の展示会という感じで
出てる絵が良かった。北斎、応挙、池大雅、森祖仙、青木木米、椿椿山、抱一、若冲、松村景文(他にも多数)
と特に抱一のが良かったですね、扇面屏風が、それと最近思うのですが、
抱一の絵はぺらぺらした。印象があると思います。たらしこみの様な技法使う割には・・・
森祖仙の猿の親子の絵も毛並みが凄かったですね。
絵の具を延ばしてその上から毛並み描いてるのか、もっと斬新な描き方があるんだろうかと気になる。
応挙の竹と鳥の絵もなかなか。構図が巧いなと
椿椿山の?寿平風の絵は、この時代には中国からこういう絵が入ってきて
こういう風に受容して影響受けてたんだと興味深かったです。
画冊だったので1ページだけでしたが結構?寿平ぽい書き方だったと思います。
北斎は幾何学的に絵が構成されていて、相変わらず凄い目してるなと思いました。何故こういう構図がとれるのかと
北斎の絵手本をまさに実践してる。絵なんじゃないかと
こういう絵を見ると北斎の絵手本をまた観たい。
泉屋博古館は能面と能装束の展示。能面はイマイチわからず。でも好きな能面もありました。
装束は女役を演じる時に使うものより男役の方が好みでした。
豪華、華やかさは女役の装束の方が良かったですが、
デザインは男役の方が好みでした。松や亀甲や箔、デザイン、色の使い方が面白かったです
野村美術館は茶碗が大変良かったです。御本立鶴茶碗、青磁系象嵌の鶴の茶碗にとか粉引、釘伊羅保、刷毛目、高取とか
前回行った前半の展示より好みでした。
掛物は?でしたけど。松花堂の維摩居士と寒山捨得でしたが。
もうちょっと衣の部分に墨の抑揚と服の皺と顔が欲しいなと
まとめ 今回は絵は細見美術館が良かった。茶碗は野村美術館、茶杓と塗、仕覆、帛紗は北村美術館
デザインの斬新さは泉屋博古館。そんな感じでした
今回は北村美術館、細見美術館、泉屋博古館、野村美術館と行ってきました。
北村美術館は今回はイマイチぴんとこず
パンフレットになってる棗も写真の方が綺麗な様な・・・
というかいつもここは、写真の撮り方が綺麗過ぎる気がします。
花入、茶杓、香合、盆は良かったです。
細見美術館は今回久しぶりにツボな展示会でした。久しぶりに絵の展示会という感じで
出てる絵が良かった。北斎、応挙、池大雅、森祖仙、青木木米、椿椿山、抱一、若冲、松村景文(他にも多数)
と特に抱一のが良かったですね、扇面屏風が、それと最近思うのですが、
抱一の絵はぺらぺらした。印象があると思います。たらしこみの様な技法使う割には・・・
森祖仙の猿の親子の絵も毛並みが凄かったですね。
絵の具を延ばしてその上から毛並み描いてるのか、もっと斬新な描き方があるんだろうかと気になる。
応挙の竹と鳥の絵もなかなか。構図が巧いなと
椿椿山の?寿平風の絵は、この時代には中国からこういう絵が入ってきて
こういう風に受容して影響受けてたんだと興味深かったです。
画冊だったので1ページだけでしたが結構?寿平ぽい書き方だったと思います。
北斎は幾何学的に絵が構成されていて、相変わらず凄い目してるなと思いました。何故こういう構図がとれるのかと
北斎の絵手本をまさに実践してる。絵なんじゃないかと
こういう絵を見ると北斎の絵手本をまた観たい。
泉屋博古館は能面と能装束の展示。能面はイマイチわからず。でも好きな能面もありました。
装束は女役を演じる時に使うものより男役の方が好みでした。
豪華、華やかさは女役の装束の方が良かったですが、
デザインは男役の方が好みでした。松や亀甲や箔、デザイン、色の使い方が面白かったです
野村美術館は茶碗が大変良かったです。御本立鶴茶碗、青磁系象嵌の鶴の茶碗にとか粉引、釘伊羅保、刷毛目、高取とか
前回行った前半の展示より好みでした。
掛物は?でしたけど。松花堂の維摩居士と寒山捨得でしたが。
もうちょっと衣の部分に墨の抑揚と服の皺と顔が欲しいなと
まとめ 今回は絵は細見美術館が良かった。茶碗は野村美術館、茶杓と塗、仕覆、帛紗は北村美術館
デザインの斬新さは泉屋博古館。そんな感じでした
茶道資料館へ行った感想を
狩野探幽の屏風絵を期待して行ったのですが、
残念ながら、これは個人的にハズレでしたが
でも土佐光起の屏風が良かったです。
端正な線がシャープな絵で土田麦僊なんか絵を髣髴とさせる。
構図と線があと絵のテーマも
近代の絵が狩野派や南画からの脱却なんだったというのを感じる絵でした。
酒井抱一の作品も良かったです。
三軸で一つの作品でしたが、左は松、真ん中は貴族のおっさんと月、左は枝垂桜の枝の部分
このうち右の枝垂桜の作品が良かったです。構図が見事
複雑に枝が混じりあってるんだけど、
その枝の奥行きやこの枝はこれより奥にある。手前にあるというのがよく判って、
あと枝の垂らしこみって言ったらいいのかな?枝の表現が見事な絵でした。
あと観れませんでしたが、不詳ですが、なら名前使うなよという感じですが徐煕と牧谿が出てた模様。
どうでもいい話ですが牧谿といえばこの前Sotheby’sで物凄く良い青磁の花瓶と売りに出てましたが、
いくら位になったんでしょう?あと売主はどこ?関西らしいけど
多分国外流出してたら、戻ってこないんだろうな・・・
話を元に戻しますが後期は英一蝶の屏風が出るようです。
茶道具関係は、永楽保全の作品が良かったです。見事な金襴でした使い込まれていたのか、金が磨り減ってる部分もありましたが。
あと呉須の渋い作品も
最後に気づきませんでしたが、近所に表千家北山会館があったんですね。前通ったのに気がつきませんでした。行けばよかった。
狩野探幽の屏風絵を期待して行ったのですが、
残念ながら、これは個人的にハズレでしたが
でも土佐光起の屏風が良かったです。
端正な線がシャープな絵で土田麦僊なんか絵を髣髴とさせる。
構図と線があと絵のテーマも
近代の絵が狩野派や南画からの脱却なんだったというのを感じる絵でした。
酒井抱一の作品も良かったです。
三軸で一つの作品でしたが、左は松、真ん中は貴族のおっさんと月、左は枝垂桜の枝の部分
このうち右の枝垂桜の作品が良かったです。構図が見事
複雑に枝が混じりあってるんだけど、
その枝の奥行きやこの枝はこれより奥にある。手前にあるというのがよく判って、
あと枝の垂らしこみって言ったらいいのかな?枝の表現が見事な絵でした。
あと観れませんでしたが、不詳ですが、なら名前使うなよという感じですが徐煕と牧谿が出てた模様。
どうでもいい話ですが牧谿といえばこの前Sotheby’sで物凄く良い青磁の花瓶と売りに出てましたが、
いくら位になったんでしょう?あと売主はどこ?関西らしいけど
多分国外流出してたら、戻ってこないんだろうな・・・
話を元に戻しますが後期は英一蝶の屏風が出るようです。
茶道具関係は、永楽保全の作品が良かったです。見事な金襴でした使い込まれていたのか、金が磨り減ってる部分もありましたが。
あと呉須の渋い作品も
最後に気づきませんでしたが、近所に表千家北山会館があったんですね。前通ったのに気がつきませんでした。行けばよかった。
野村美術館と京都市美術館と国立近代美術館へ行った感想を
野村美術館は高麗茶碗の特集で現在の作家の作品と過去の作品が展示してありました。
現在と過去の作品を見比べて感じたのは、色や光沢に差がありますね。
新しいのは使い込まれてないためか、時代を経た退色していからか、
発色、てかり具合にやっぱり差があるなと
過去の作品たちが誕生した時はどんな感じだったのか、
また現在の作品が過去の作品と同じだけ時代的経過を受けるのかと
ふと考えました。どちらにしろ追求できないことですが。
でも例えば5年に一回ぐらいでも、いいから写真に残して差を見ると面白いのではと思いました。)
それと高台や茶碗の厚みにも結構差が、でもこの辺は使って見ないとわからないかな?
あと青磁系の茶碗があまり展示されなくて残念。後期に期待ということで
あと高麗茶碗とは関係ないですが青磁の風炉や香炉が非常に良かったです。
観てて思ったのですが、金属で出来た。動物を象った香炉とかも結構好きだなと思いました。
京都市美術館もうつわ関係の展示でしたが
こちらは茶の湯とあまり関係なさそうな壷や皿からオブジェから結構ピンきり、
気に入った作品は河合卯之助(色彩が非常に良かったです。線がとろくさい感じがしますが、
でも、もし日常的に使えるなら非常に良い選択かと)
加藤宗巌、展示は犀と牛頭の作品で少し暗い様な印象でしたが良かったです。この人の伝統的な作品が見たい。
山崎覚太郎(蝸牛をデザイン化した。小さい箪笥が展示してあったのですが、
この人のデザインはなか斬新で良かったです。他どのような作品作ってるか判りませんが、
もっと図案をみたいなと思いました。観た数が少ないのでなんとも言えませんが、
でも過去に見た佐野長寛や原羊遊斎や琳派の系統の図案でなく、違う流れからきてるオリジナルの部分を感じました。
津田信夫の軍鶏、(軍鶏から形を崩しているけど、軍鶏と判り、かつ本当に形がシャープで、
シャープなんだけどシャープな部分を重要視して全体の形を壊す事無く調和した美しさがあって良かったです。
軍鶏なんでやや下品な気もしますが、軍鶏の攻撃性を表現してると思えば凄い事なのでは)
以上
当初は春の作品展は色々行きたい所が色々あったのですが
細見美術館、泉屋博古館、高津古文化会館、香雪美術館は
風邪引いたり、花粉症の進行その他諸々により不可になりました。
あと河鍋暁斎展へいくかどうか?悩んでます。
河鍋暁斎は絵が巧いのは判るけど、絵が下品。
芦雪や蕭白より下品な気が・・・両者とは根本的に絵のタイプ的には違う気がしますけど。
芦雪や蕭白とは表現方法に、芦雪や蕭白の方が狩野派や沈南蘋、中国趣味の影響が多いと思います。
暁斎の方がよりある意味そういうものに縛られてないのでは?より自由に描きたい様に描いてる気がします。それと月岡芳年とも関係がある様な気も・・・
(同時代に活躍してるのである種の時代の好みを反映してる?)
狂斎漫画と北斎漫画との比較とか、塩川文麟なんかとも比較してみたい。
あと鏑木清方にも影響を与えてるような?
絵そのものより、その辺りを確かめてみたい気もしますが
観た後夢に出てくると怖い。あと人ごみが、花粉がその辺が悩み。
野村美術館は高麗茶碗の特集で現在の作家の作品と過去の作品が展示してありました。
現在と過去の作品を見比べて感じたのは、色や光沢に差がありますね。
新しいのは使い込まれてないためか、時代を経た退色していからか、
発色、てかり具合にやっぱり差があるなと
過去の作品たちが誕生した時はどんな感じだったのか、
また現在の作品が過去の作品と同じだけ時代的経過を受けるのかと
ふと考えました。どちらにしろ追求できないことですが。
でも例えば5年に一回ぐらいでも、いいから写真に残して差を見ると面白いのではと思いました。)
それと高台や茶碗の厚みにも結構差が、でもこの辺は使って見ないとわからないかな?
あと青磁系の茶碗があまり展示されなくて残念。後期に期待ということで
あと高麗茶碗とは関係ないですが青磁の風炉や香炉が非常に良かったです。
観てて思ったのですが、金属で出来た。動物を象った香炉とかも結構好きだなと思いました。
京都市美術館もうつわ関係の展示でしたが
こちらは茶の湯とあまり関係なさそうな壷や皿からオブジェから結構ピンきり、
気に入った作品は河合卯之助(色彩が非常に良かったです。線がとろくさい感じがしますが、
でも、もし日常的に使えるなら非常に良い選択かと)
加藤宗巌、展示は犀と牛頭の作品で少し暗い様な印象でしたが良かったです。この人の伝統的な作品が見たい。
山崎覚太郎(蝸牛をデザイン化した。小さい箪笥が展示してあったのですが、
この人のデザインはなか斬新で良かったです。他どのような作品作ってるか判りませんが、
もっと図案をみたいなと思いました。観た数が少ないのでなんとも言えませんが、
でも過去に見た佐野長寛や原羊遊斎や琳派の系統の図案でなく、違う流れからきてるオリジナルの部分を感じました。
津田信夫の軍鶏、(軍鶏から形を崩しているけど、軍鶏と判り、かつ本当に形がシャープで、
シャープなんだけどシャープな部分を重要視して全体の形を壊す事無く調和した美しさがあって良かったです。
軍鶏なんでやや下品な気もしますが、軍鶏の攻撃性を表現してると思えば凄い事なのでは)
以上
当初は春の作品展は色々行きたい所が色々あったのですが
細見美術館、泉屋博古館、高津古文化会館、香雪美術館は
風邪引いたり、花粉症の進行その他諸々により不可になりました。
あと河鍋暁斎展へいくかどうか?悩んでます。
河鍋暁斎は絵が巧いのは判るけど、絵が下品。
芦雪や蕭白より下品な気が・・・両者とは根本的に絵のタイプ的には違う気がしますけど。
芦雪や蕭白とは表現方法に、芦雪や蕭白の方が狩野派や沈南蘋、中国趣味の影響が多いと思います。
暁斎の方がよりある意味そういうものに縛られてないのでは?より自由に描きたい様に描いてる気がします。それと月岡芳年とも関係がある様な気も・・・
(同時代に活躍してるのである種の時代の好みを反映してる?)
狂斎漫画と北斎漫画との比較とか、塩川文麟なんかとも比較してみたい。
あと鏑木清方にも影響を与えてるような?
絵そのものより、その辺りを確かめてみたい気もしますが
観た後夢に出てくると怖い。あと人ごみが、花粉がその辺が悩み。