絵より陶磁器の方が好みは別として
完成度が作品数が多い気がするのは何故なんだろう。
(陶磁器分野で私の目が肥えてないだけ?)

例えば陶器磁器なら私なら、歴代の中国の官窯の青磁やら色絵、
豆彩、天目茶碗、朝鮮の青磁、白磁、井戸茶碗、東南アジア製の
茶壷、中東地域のラスター彩、ヨーロッパ製の陶磁器
日本なら京焼の奥田頴川と門下生、織部焼き、柿右衛門、備前焼、九谷焼、鍋島とか好き嫌いは別としてどれも完成度が非常に高いと思えますが、形の美しさ、色彩の美しさ、模様の美しさなど
何を持って完成度が高いとするはそれぞれですが、
でもとりあえず完成度高さ、ある種の共通した美しさを持つような気がするのですが、絵だとそうはいかないと思うんですよ。
やれ構図が気に喰わん、筆致が気に喰わん、色彩が気に喰わんと
また絵は陶磁器ほど共通した美しさというモノが無いとも思います。
例えば陶磁器なら造形の美しさというのは東西問わず共通点がある様な気がしますし
磁器なら色絵の元の白い部分の美しさ、描いてあるモノの美しさなども

絵にはそういうモノが無いですよね。
もうアジア圏の中でも難しいですし
東西問わずなんていのは殆ど夢の様な話ですよね。

この辺は昔から貿易で色々向こうに行ってるから
中国や日本の焼き物がヨーロッパ圏の陶磁器に影響与えるとか
地域の技術伝播とか、
陶磁器はどんなに高級品であっても
日常の延長線生活にあるものだから数作ってるから
それだけ作品数が多いのとか、絵は陶磁器ほど量産化できないから残ってないのでしょうか、
あと紙の方が耐久性の問題とか色々あると思いますが

でもそういう問題だけじゃくて、根本的な問題がある様な気がするんですよ。
それは三次元と二次元の違い、いまさらかいと言われるかも知れませんが。
やっぱり絵の方が難しいと言いましょうか、表現に制限があると思います。ただ難しい=芸術性が優れているではないと思います。
差があるとすれば非日常性では?
陶磁器なら作者の技術的な問題はあると思いますが形を作るのは
やはり容易な気がします。ただ色の表現となると絵より困難と思いますが、焼くという偶然性が加わるので

二次元に三次元のモノを描こうとするのはやはり技術的により複雑なのではないかと
勿論世の中には三次元をあまり表現的に重要視しない絵もありますが四次元を表現しようとする絵や平面的に描こうとする絵など

まず絵は造形的に美しさを表現することが出来ない、
陶磁器なら立体感、奥行きをそのまま表現出来ますが、
作者の技術の問題はあるとはいえ絵となるとそういう三次元のものをそのまま表現できない、
三次元を一度二次元に置き換える必要がある。そのせいで失っているものがあると思います。絵には

例えば応挙やダリなんかは眼で観て判るように技法的に写実な作品を描いてると思いますが、
(両者は絵画思想、表現方法は違いますが二次元の中で三次元を表現してる絵)
絵の中に現実の風景を持ち込んだ様な、
でもそういう絵は技術的な高さを感じる一方で
絵として、非常につまらない作品も多い気がします。
図鑑に載ってる絵というか、絵が死んでるというか、
ユーモアが足りないというか。まじめと言うか。
気韻生動でないというか。
円山応挙の絵の評価が高いのは応挙の代だけに限り後の派として
普及するのは、与謝蕪村の情緒的な画風の影響を受けた呉春や
松村景文の四条派やある種過剰に野性味や、装飾性の増す岸派や
森派になるのが物語っているのではないでしょうか
それでも応挙が彼がそのジャンルの第一人者というのと卓越した
技術を持ってるからではないでしょうか
また近代の初期の東洋的な表現と西洋的な表現を強引に融合させた絵が評価的にもう少し後の時代の絵と比べると落ちるのにも関係があるのでは?

でもかと言って絵に三次元的な要素を持ち込むなというと
大きな間違いな気がします。ミケランジェロの様に彫刻、絵画両方やられる方や青木木米は画、陶芸両方やるし板谷波山などには絵画的な要素があると思うから。
ようは彫刻や陶芸の三次元的なものをそのまま絵に持ち込むというのは不可能で絵で三次元を表現するためには二次元における三次元的表現がが必要なのでは?

その視点を持つと西洋の遠近法の影響を受ける以前の東洋の絵をを観ても三次元があるのではないかと没骨法的な絵、ペルシャ系の絵にもそういう風に観えなくても、当時としては3次元を表現しようとしているのではないかと
以下ジャンルが中国系の絵の話になりますが、
一見すると鈎勒法と比べ極めて平面的にみえますが、
上手な人の絵にはその平面的な世界にも確かに3次元があるのではないかと。墨の濃淡や、絵の具の抑揚や筆の掠れ具合にも、
西洋的な3次元の捉え方ではないですが
東洋的な三遠(中国画遠近法)の考え方も
現代的に観たら3次元を追求してる絵には観えませんが、
でも例えば画面全体ではなく局部的にですが
董其昌の岩なんかには三遠から観てもおかしくない、
また現代的に観てもおかしくない風に描かれてる気がします。
皺法で立体感を出すように努力して
米フツの点描の様な描写にもそれは見出せると思います。

日本画なら時代がポンと飛んでしまいますが、
福田平八郎や平面的なんだけど絵の具で立体感を出してる絵なんかにもそれと小野竹喬の風景画なんかにも三遠の方に則った絵がある様な気がします。
よく観ると米フツなんかの絵がイメージ出来る気がしますが、私の思い込みでしょうか。
あと竹内栖鳳の中国のスケッチの作品なんかにもそういう要素があるのではないでしょうか

三次元に拘るのであれば忠実に三次元を表現した絵は技術的には高くても概してつまらない絵が多いので
その辺の工夫も必要なのでは?二次元を生かした要素が、それ以外のとの組み合わせが
三次元の再現技術以外の要素が

例えば没骨法、米フツ法、三遠、自然主義、印象派、抽象、即興性
情緒、情緒性の排除、レンブラントの光、葛飾北斎の波、他多数の様なモノがただこれらを忠実に再現するだけでは、
技術的には高くてもそれは過去の模倣に過ぎず、絵として観る為には何かと組み合わせて再構成して作らないと絵とは呼べないのでは?
これは逆説的に陶磁器にも当てはまるのでは?
画工的な要素があっても、
現在過去より窯や釉薬の技術が進歩しても
デザイン面で過去の美しさや色彩を超えることが不可能であったり、何かが足りないと感じるのと同じでは?
例えば京薩摩など、磁器に画を再現しどんなに緻密に描いていて
技術的な高さは感じても、
果たして陶磁器と面白いかと問われると疑問で
板谷波山や楽茶碗の方が陶磁器的には面白い、
若しくは仁阿弥道八や鍋島の方が美しいと思うのと同じでは
例えば造形的に、釉薬の美しさなど

以上しゃべった覚書でした

本日の一言 尾形乾山って所謂琳派じゃないですか、
じゃあ野々村仁清はどうなんでしょう。
琳派じゃないのかな?時代的には尾形兄弟と被るし作風も近いし琳派っぽいと思うけど
世間的に琳派とは呼びませんよね。また野々村仁清より巧く仁清っぽいのを作る高橋道八なんかも琳派とは呼びませんよね。
和物なんていう風に呼びませよね。なぜなんでしょう?
作風はかなり琳派っぽいものを作ってると思うのですが、というか影響を受けてると思うのですが
琳派と仁清との直接の繋がりは判りませんが、
あれば直接の影響だし無ければ時代的特色だと思うのですが
これって絵で言うところの大和絵とは別に土佐派、巨勢派がある様なものなんでしょうか。

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