ここ数日勉強した事と個人的意見を足したメモ
写生と写実というのは違う
今まで長い間混同して考えていましたが、
先に断っときますが、写生だから評価が良いとか、
写実的だから絵の評価が悪いということは無いです。
写生は究極的には、
子供が実際に眼の前の母親を見て
仮に技術的が無いために、子供らしい絵でも
母親をその通りに描けなくても写生、実際に生で見て、
写してるわけだから
ゴッホや印象派の絵は写生して描いているにも関わらず現実的には見えない。
日本でなら司馬江漢の作品なども、そうじゃないでしょうか?
また雪舟などの真景図と呼ばれる作品も
でも実物を見、実景を見、写生はしてる。
写生は字の如し目で見た生を写す事を表している。
写生は絵に対する方向性、
写実はスーパーリアリズムとかの凄いアップの写真とか、
決定的瞬間、現実にはありえない風景でも、
また仮に写生をして描いてなくても、物凄く現実的に感じる。
サルバドール・ダリの作品や
若しくは写生しても(自然美ではなく)絵として美しさを求めるために、
写生したモノを纏めて余分なモノを省いたり、
写生した時のポーズでは無い絵で描いたり
現実的に見せる為に、本来無いモノを付け加えたりする。色を鮮やかにしたり、現実とは違っても見る人とが持つイメージに合わす。
また三次元を意識したり、質量感や、立体感、奥行きなど
写実はそういう現実的に見せる。技術を指す
また写生を表現するために写実的表現が使われる事もあり、対立しあうものではない、
で。この考えを元に、
京都市美術館へルーブル展と写生の時間展を見に行ったんですが
やはり日本画って写生を取り入れてる絵は沢山あっても写実性を意識してる。
絵の具の濃淡での遠近の表わし方や影の表現、質感の表現など
絵って実は物凄く少ないのではという事、
(近代だけに限らず少し前の江戸時代の池大雅、伊藤若冲、琳派
もっと前の雪舟にしても、雪舟と池大雅は真景図という写生をした作品を残していますが、写実的ではありません。
また伊藤若冲は写生はしていても、色の具合が強烈で写実的というより、幻想の絵。)
それは日本画の絵の具の難しさ、
例えば墨を自分の思い通りに表現しようとするのは難しい、
それよりもそういう墨の思い通りにならない所を楽しんだ方が簡単。
岩絵の具は、絵の具の種類が少ないし、色を混ぜて作るのは無理
また膠で付着させる性質上重ねて塗るのは剥離する恐れがあるから難しい。仮に浸透性の絵の具を使うにしても、
それでは質量感を出すための重ね塗りは難しいなど
技術的に色々あるからだと思うのですが、
また写実的表現が少ないのは日本人の美意識とも関係しているのではないでしょうか
例えば日本には写実的なミケランジェロ若しくは古代ローマの様なの彫刻作品が無いの何故か?
大きな仏像を作るなどの、材木の加工、金属の加工技術などがあったにも関わらず。
また応挙の非常に写実的な絵が、
(応挙は写実性というのなら、日本画でトップクラスじゃないでしょうか)
何故応挙以降の世代の人間に引き継がれず、実物を見て描く写生と言う姿勢、付立と言う技術は引き継がれても
ロマン主義的な松村景文、呉春の様な作品が多くなるのは何故か?
また日本画に影を取り入れた絵が非常に少ないのも
(過去、現代に限らず、この影と言うのは西洋画の様に、ある一点から光を取り入れて影を表現してる影)
これらは日本人の写生的なモノの好みが関係してるのではと思います。絵の具の特性と相成って
ただ日本に写実感が無いかと言うとそんなことは無く、
西洋画とは基準の違う写実感というのもあると思います。
例えば今回観て思ったのですが、洋画の風景画なら、春なのか、夏なのか、秋なのか判らないけど、
これは私が日本人だからというのもあると思うのですが、
日本画には季節感が常にあるということ、
風景画を観れば、春か夏か、すぐに判る。若しくは鳥の羽を見たり、なんの植物の花かというので
そういうもので季節感が得られる。題名ではなく絵、そのもので
これは日本的な写実感なのではと思います。
ということで今回の展示会は非常に楽しめたし、ためになりました。
特に写生の時間展は(人が多くルーブル展はあまり観れませんでしたが)
近代への応挙の影響というのも実感できましたし、
(誰の絵か忘れましたが、子犬を描いた絵でしたが、応挙と構図、描き方共にものの見事に一緒でした。
これが何故一緒なのか、応挙の粉本による影響なのか、それとも個人の力での到達なのかは判りませんが)
あと竹内栖鳳の年を重ねるほど、南画傾向になるのも実感でき、
栖鳳の四条派嫌いを確認できました。
竹内栖鳳の作品は下絵や写生帖が随分出ていました、
でも本画はありませんでした。
やはり本画は竹内栖鳳記念館がドタバタしてる時に売り飛ばされてしまったのでしょうか、どこに行ったのか謎です。
バブル期崩壊後何年かした後に差し押さえたモノを債権者が
海外のオークションで現金化したようにその内大量に売りに出されるかもしれませんが
しかし今回の展示会ただ一つだけ納得出来ない事があります。
それは掛け軸を吊るして展示するのではなく、テーブルに寝かせて展示させていた事です。
観た時唖然としてしまいしました。こんな展示方法アリかいと
その絵は富岡鉄斎の掛け軸、
どう考えても展示方法間違ってるだろう。
情けない、美術館なのに・・・日本画の展示会なのに、
もうちょっとマシな展示方法無いのでしょうか。
こんないい加減な展示方法してたら
ちょうど観に行ったの盆の時期だったし
富岡鉄斎が墓場起きて来て怒鳴り込んでくるぞ。
こんな展示方法か怖いからやめてくれ
写生と写実というのは違う
今まで長い間混同して考えていましたが、
先に断っときますが、写生だから評価が良いとか、
写実的だから絵の評価が悪いということは無いです。
写生は究極的には、
子供が実際に眼の前の母親を見て
仮に技術的が無いために、子供らしい絵でも
母親をその通りに描けなくても写生、実際に生で見て、
写してるわけだから
ゴッホや印象派の絵は写生して描いているにも関わらず現実的には見えない。
日本でなら司馬江漢の作品なども、そうじゃないでしょうか?
また雪舟などの真景図と呼ばれる作品も
でも実物を見、実景を見、写生はしてる。
写生は字の如し目で見た生を写す事を表している。
写生は絵に対する方向性、
写実はスーパーリアリズムとかの凄いアップの写真とか、
決定的瞬間、現実にはありえない風景でも、
また仮に写生をして描いてなくても、物凄く現実的に感じる。
サルバドール・ダリの作品や
若しくは写生しても(自然美ではなく)絵として美しさを求めるために、
写生したモノを纏めて余分なモノを省いたり、
写生した時のポーズでは無い絵で描いたり
現実的に見せる為に、本来無いモノを付け加えたりする。色を鮮やかにしたり、現実とは違っても見る人とが持つイメージに合わす。
また三次元を意識したり、質量感や、立体感、奥行きなど
写実はそういう現実的に見せる。技術を指す
また写生を表現するために写実的表現が使われる事もあり、対立しあうものではない、
で。この考えを元に、
京都市美術館へルーブル展と写生の時間展を見に行ったんですが
やはり日本画って写生を取り入れてる絵は沢山あっても写実性を意識してる。
絵の具の濃淡での遠近の表わし方や影の表現、質感の表現など
絵って実は物凄く少ないのではという事、
(近代だけに限らず少し前の江戸時代の池大雅、伊藤若冲、琳派
もっと前の雪舟にしても、雪舟と池大雅は真景図という写生をした作品を残していますが、写実的ではありません。
また伊藤若冲は写生はしていても、色の具合が強烈で写実的というより、幻想の絵。)
それは日本画の絵の具の難しさ、
例えば墨を自分の思い通りに表現しようとするのは難しい、
それよりもそういう墨の思い通りにならない所を楽しんだ方が簡単。
岩絵の具は、絵の具の種類が少ないし、色を混ぜて作るのは無理
また膠で付着させる性質上重ねて塗るのは剥離する恐れがあるから難しい。仮に浸透性の絵の具を使うにしても、
それでは質量感を出すための重ね塗りは難しいなど
技術的に色々あるからだと思うのですが、
また写実的表現が少ないのは日本人の美意識とも関係しているのではないでしょうか
例えば日本には写実的なミケランジェロ若しくは古代ローマの様なの彫刻作品が無いの何故か?
大きな仏像を作るなどの、材木の加工、金属の加工技術などがあったにも関わらず。
また応挙の非常に写実的な絵が、
(応挙は写実性というのなら、日本画でトップクラスじゃないでしょうか)
何故応挙以降の世代の人間に引き継がれず、実物を見て描く写生と言う姿勢、付立と言う技術は引き継がれても
ロマン主義的な松村景文、呉春の様な作品が多くなるのは何故か?
また日本画に影を取り入れた絵が非常に少ないのも
(過去、現代に限らず、この影と言うのは西洋画の様に、ある一点から光を取り入れて影を表現してる影)
これらは日本人の写生的なモノの好みが関係してるのではと思います。絵の具の特性と相成って
ただ日本に写実感が無いかと言うとそんなことは無く、
西洋画とは基準の違う写実感というのもあると思います。
例えば今回観て思ったのですが、洋画の風景画なら、春なのか、夏なのか、秋なのか判らないけど、
これは私が日本人だからというのもあると思うのですが、
日本画には季節感が常にあるということ、
風景画を観れば、春か夏か、すぐに判る。若しくは鳥の羽を見たり、なんの植物の花かというので
そういうもので季節感が得られる。題名ではなく絵、そのもので
これは日本的な写実感なのではと思います。
ということで今回の展示会は非常に楽しめたし、ためになりました。
特に写生の時間展は(人が多くルーブル展はあまり観れませんでしたが)
近代への応挙の影響というのも実感できましたし、
(誰の絵か忘れましたが、子犬を描いた絵でしたが、応挙と構図、描き方共にものの見事に一緒でした。
これが何故一緒なのか、応挙の粉本による影響なのか、それとも個人の力での到達なのかは判りませんが)
あと竹内栖鳳の年を重ねるほど、南画傾向になるのも実感でき、
栖鳳の四条派嫌いを確認できました。
竹内栖鳳の作品は下絵や写生帖が随分出ていました、
でも本画はありませんでした。
やはり本画は竹内栖鳳記念館がドタバタしてる時に売り飛ばされてしまったのでしょうか、どこに行ったのか謎です。
バブル期崩壊後何年かした後に差し押さえたモノを債権者が
海外のオークションで現金化したようにその内大量に売りに出されるかもしれませんが
しかし今回の展示会ただ一つだけ納得出来ない事があります。
それは掛け軸を吊るして展示するのではなく、テーブルに寝かせて展示させていた事です。
観た時唖然としてしまいしました。こんな展示方法アリかいと
その絵は富岡鉄斎の掛け軸、
どう考えても展示方法間違ってるだろう。
情けない、美術館なのに・・・日本画の展示会なのに、
もうちょっとマシな展示方法無いのでしょうか。
こんないい加減な展示方法してたら
ちょうど観に行ったの盆の時期だったし
富岡鉄斎が墓場起きて来て怒鳴り込んでくるぞ。
こんな展示方法か怖いからやめてくれ
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