唐突ですが山水画ってなんなんだろう。
山水画は西洋画における風景画とは違いますし、
写生画でもありませんし
かといって宗教性が非常に強い絵や装飾目的の絵ではありません。
画中に山水に遊ぶというのが、答えなんだと思いますが、
(私はこれを今のところ理解できません)
しかしこれを日本の雪舟、相阿弥、狩野正信らの初期狩野派の画家たちは理解していたのでしょうか?
室町時代の山水画は中国画の山水を模倣しているのは理解できますが、
山水画の目的、考え方、精神は理解できていたのでしょうか?

それでは理解してないとなると日本の山水画とは中国画を模倣している。若しくは本来の山水と遊ぶという目的をを離れ
中国風の香りがする絵画を描くいう事にはならないのでしょうか。
中国らしさを感じるという部分に重きを置き
そしてそれは山水というより、想像画の部類になるんじゃないでしょうか?写生を無視し、写意を無視し
中国では写生性を重視しなくても太湖石や巨岩
垂直にそそり立つ様な山など山水画で描けるべき風景が実際にありますが、日本には無い。完全に想像によらなくてはならないから。

そしてその流れは、絵における三次元的表現の意識より
画面構成への意識を重視する流れになり、
日本的な絵を生み出したのではなかろうか、
三次元的表現より、平面的美しさ、画面構成の美しさ
筆の流れ、動き、余韻を楽しむような方向へ
そういう結果、狩野探幽や琳派が登場したのではないでしょうか。
そんな中で登場した池大雅は非常に特異な画家ではないでしょうか。実際の風景を見ながらも自分の心に写ったモノを写す、
写意を重視するという、本来の中国的な山水画を描く画家という事で、思想的に、意識的に
また近年の山水画がつくね芋山水などと言われるのは
円山応挙という、三次元性を意識した画家が登場したため、
山水でも三次元性を表現しようとした。
結果の失敗例なのではないでしょうか。
そのドツボから脱出できなかった、出来ない。
結果現在の日本における、山水画の衰退に至ったのではないでしょうか。若しくは今の日本には画中に山水に遊ぶという様な余裕が無いため、製作する側にも消費する側にも

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