珍しく友人と美術館へ行く機会があり、
その帰り道に休憩がてらに入った喫茶店で
芸術は逸脱にアリという意見を唱えるので
これは良い機会だと言うことで私なりにちと考えてみました。
先に断っておきますが私は美術や芸術、アートと言った。
言葉が大嫌いです。これらの表現を使うと非常に安く聞こえるので、絵、陶芸、立体、音楽などの中に芸術があるというのなら、
わかりますが、(ただそれを芸術と呼んで良いかわかりませんが)
包括して使うと非常に安く聞こえるので嫌い。
というか。美術や芸術アートと一言で表現できるものは、
美術や芸術アートでは無い気がします。
出来る限り個人的作品、作家の趣味を除いて

以下ある日の個人的絵画の考え(日本画編)

状態1        状態2                伝統、古典、固定観念、1の伝統、古典、固定観念からの逸脱、若しくは自分が今まで受けた美術教育からの逸脱。
またこの逸脱にも状態1を否定的に捕らえる。−と1を肯定し、それを逸脱する+がある。
状態3              状態4
否定 逸脱から古典、伝統への回帰、 状態3プラス伝統と古典が融合したモノからの超越、そして状態4は次の世代に受け継がれる際には伝統、古典、固定観念となる
(先に断っておきますがどの状態にあろうと、絵の巧さ作品の評価とはランク付けではないので。関係無い)

1の状態のままだとどんなに極めても芸術にはならない。
物凄く腕の良い職人にはなると思いますが、若しくは素晴らしい模倣が出来る人にまた腕の良い職人の作品は状態2の中途半端な作品より世間受けし、金になり万人受けし美しいと思います。

状態2先に断っておきますがここでとりあげる人物には
個人的価値観が加えられるてるので客観性に欠くかもしれません
出来る限り努力しましたが
作品で言うならまさしく横山大観なんかがそうじゃないでしょうか。伝統、古典からの逸脱、洋画との融合や新しい時代を切り開いたということで竹内栖鳳、橋本雅邦、山元春挙なんかそうでないかと、あと呉春もこの部類でないかと

状態3逸脱から伝統への回帰ということで、
池大雅や狩野芳崖なんがそうじゃないでしょうか、
池大雅は最初王義之に学び逸脱し再度王義之に回帰したので
狩野芳崖は、狩野派でありながらも雪村を取り込み、また洋画の技法を取り込むなど色々作品を残していますが
最終的には元のフィールドの狩野派と融合し、新しい世界を作ったということで、

余談ですがこの2と3の間にあるのが長沢芦雪でないかと、
芦雪は応挙の写生を受け継ぎそれを踏まえ、逸脱し描いていますが、応挙ならまずしないだろうなと言うような構図などで
しかし応挙の影響は見てて否定できないので、モノの捉えかたなど
同時に応挙を否定したいというのも気持ちもあるので、
伝統には回帰してない、でも伝統を否定したいというのも判る。
その中間と言うことで

状態4 曽我蕭白、伊藤若冲、狩野探幽、尾形光琳、円山応挙なんかがそうじゃないでしょうか、、
その画家が登場するまで誰も今まで観たことが無いほど画期的ということで蕭白、若冲、光琳は画風的クリア
狩野探幽は画風的に古典じゃないのかねと、ツッコミが入りそうですが、でもそれは探幽を後世の目で見ての事、
永徳、元信、松栄などの御先祖の絵さらに土佐派と融合し
まったく新しい様式の絵を描いてるのでクリア、
応挙は元は狩野派、沈南蘋や長崎派、遠近法を採り入れているので
状態3なのではないのかと言われるかもしれませんが、
しかし元の狩野派には回帰してないので、やはり状態4でないかと
蕭白に関しては後世に受け継がれ伝統となっていませんが、
他の若冲、探幽、光琳、応挙は現在まで伝統がそのまま受け継がれているかというと疑問に思いますが。で
も少なくとも過去に置いては受け継がれてますので(光琳なら琳派。若冲も若冲派がありますし応挙なら円山派、四条派、岸派として)そして今それが現在受け継がれてないというなら
現在その伝統、古典を乗り越えたからと考えているからでないでしょうか。若しくは伝統、古典、乗り越えたいとしているか、
見る人の側ではなく、描く側の見方としてですが。
そこは個人の主観や客観があるので評価として難しいと思いますが
私の個人的価値観ではそう考えます。
そして話が外れますがこの考えをもう少し進めての話しですが、(自分自身の自己分析も含みますが)
結局の所過去の伝統や古典、固定観念は逸脱出来ない否定出来ないと思う。そういうモノからの自由もありえない。
仮に自由や開放などをうたい文句にしても、
結局それにより伝統や古典の良い部分を除いてしまう、
製作者の主観から観たら違うかもしれませんが
可能性があり、その否定自体、ある意味自由ではないのではという気がするし自由や開放を推し進め自分が欲しいと思うものを得られても、今度は自分がその大きな影響力で伝統や古典になってしまう恐れがあるのではないか、自由や開放ではない、
固定したパターンやなんとか風に
それは己が望むか望まないか関わらず、自分の周りの人の影響、時の権力、商業的理由や色々な事情で
例えば近代で言うなら横山大観や狩野探幽、円山応挙なんかが
格が違いますが平山郁夫もいい例じゃないでしょうか、
彼の場合はお金に縛られてのだと思うので
その典型的なパターンだと私などは思いますが、
それを始めた第一人者本人には罪が無いと思います。
もしもそういう可能性を判ってて推し進めたなら罪だけど、

だから私自身現代、近代の絵より古い絵を好むのかもしれません。また古典を重要視する姿勢も(この古いは歴史的に古いの場合もありますが、そうじゃない場合もあります)
オリジナルと言うと変かもしれませんが
(一つ一つの作品、作家を重視しない様にも聞こえるので)
現代の作品を見た場合この絵にある元は何なんだろうと推し進める結果大概の場合その間にある作品より元の古典のより前の方が良いという場合が多いですから。
未来の作品、(この場合は過去の発掘されてない作品も含む)
現代進行形の作品より、過ぎてしまった選別された過去から探す方が簡単ですから、現代未来にも眼を向けますが、また希望も持ちます。でもそんな事はしんどいので、とりあえずはお手軽な巨匠の
美術館にある作品に眼を向けるということで
こんな後ろ向きの私の姿勢を言い訳すために茶を飲みながら知り合いの話しを聞きつつぼやっと考えていましたとさ

以上
ここまで駄文に付き合って下さった方がいたら
ありがとうございました。感謝感謝

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