私にとって蕭白といえば昔夜中眠れなくてしょうがないので
画集を覗いてると偶然開いたページに蕭白の寒山十拾図があり絶叫したというなかなか思い出深い画家ですが
(ちなみに同じ事を岸田劉生の麗子像でもした事あります)
展示会の感想としては、最初の方は観たのを覚えていますが
でも後半からは、毒気に当たったので覚えていません。
どれも同じに見えてくるということは無いけど私は若干飽きを覚えました。10枚20枚なら飽きないと思いますが、これだけ蕭白尽くしだと
蕭白は魅力的だと思いますが私には辛かったです。
個人的に気に入ったのは富士・三保松原図屏風これが一番良かったです。蕭白にしてはあっさりめでおっこんな絵も描けるのか、
普段知ってる蕭白じゃなくて、
ということで
以下私の蕭白対しての考え
私個人趣味の問題ですが蕭白は絵的にはあまり巧いと思いません。
(巧さでいうなら応挙、池大雅には及ばないと思う。呉春、蕪村、白隠には勝ってるかもしれないけど)
趣味悪いし下品だし、筆も繊細な筆ではありませんし豪快というか荒いというか、画は考えて凝ってはいるかもしれませんが
その割には特別構図が素晴らしいと思いませんし
(構図が空間的にどっか一箇所に寄ってると言いましょうか。狭い印象がします。
それともう一つ人物を描くと顔は漫画的といいましょうか、
随分デフォルメしているんですが、(君は赤塚不二夫の漫画から飛び出したのではという様な)
その一方で衣装は昔ながらの衣装のまま、この差が私には理解できない。また山水なら何故こんな所から水が流れているんだろうという所から水が流れ滝になったり、
この絵の山で何故そこで小さな松の木を描くのかと
わからない事だらけ蕭白の個性と言えばそれまでかもしれませんが)ただ凄いなあと思うのは絵がエグさで統一されてる所じゃないでしょうか。応挙なんかの様に迷ってなくて、絶対纏まらないと思う絵を纏める所はただ絵として美しいかと言われれば疑問です。
不思議な絵だなあとは思いますが、色も描き方も構図も
全部よくこれだけエグく描けるなぁと思うくらい
とりあえず何は無くともエグイ。今回観た画で一番エグイなあ、
趣味悪いなあと感じたのは女性の着物の色が紫色だったこと、
こんな着物が紫の絵なんて初めて観たよ、本当に
だから迫力は素晴らしいと思います。
迫力で絵を評価するなら最高だと思うし、
いろんな意味で他の人では敵わないと思いますが
曽我蛇足と関係無いのに曽我派と名乗ったり、
私は明朝の皇帝の末裔だと名乗ったりと
いろんなエピソードをお持ちですから。
でもこの辺はただ狂っていたんではなく中国の八大山人などの文人などへの憧れもあると思います。池大雅などから話を聴いて
文人世界的には正常で真人間だけど、世間的には狂人、奇人と言われるのはよくあることですから。時代的にもそういうのを推奨してた時代もありますしだから明朝遺民ごっこ遊びをしてたと思えば
いいんじゃないでしょうか?当時最先端の流行に乗り
石涛や八大山人などの明朝の反清朝の遺民と
世の中応挙の写生向かう流れに乗らない自分とを対比させて
自分を非主流系アウトローとして位置づけるために、
また奥田穎川の様に明朝の混乱を逃れて日本へやって来た、
渡来人系の活躍なども関係あるのかもしれません。
先祖が外国人と名乗った方が扱いが良かったとか、
自分の絵に説明を持たせる意味でも
そのままだと唯の蕭白ですので扱いが悪いけど
名前で中国関係の絵だと判ると、おっこのエグイのは中国からの影響かと評価が上がったとか蛇足を名乗ったのも似たような事情かもしれません。)

あと曽我蕭白の凄いなと思うところは絵が物凄くストイックで真面目なところですね。
自分の力を100%若しくはそれ以上
引き出してぶつけようとしてると思いますね。
余技的に描いてるんじゃなくて、
余技的に描いて遊んでると言えば私は池大雅、伊藤若冲、酒井抱一が思い浮かびますが
伊藤若冲と曽我蕭白の違いはこの辺じゃないでしょうか。
パッと見よく両者は似てるかもしれませんが、私はまったく違う画家だと思います。
曽我蕭白は絵は変だけど物凄く真面目、だから絵が変だけど硬く、切実(その変さは真面目だから変になる。妙な遊びを入れるから変になるんじゃくて)
伊藤若冲は絵が遊んでる要素がある。
だから絵は蕭白の様にギリギリのところで描いてないし、
強烈な色使いの割には穏やかな印象を持つんだと思います。
また若冲は線を変な風に曲げますが、(蕭白の様に鋭さではなく)
だから絵が穏やかに品よく見え
これらが上品さに繋がるんじゃないでしょうか、エグイですけど
あと若冲は別に商業目的で描かなくていいのと、
蕭白は家族がおり飯を食べるために描かなくていけない差なども大きいと思います。

それと蕭白といえば「画を乞うなら我に乞え、絵図を求めんならば円山主水へ」という台詞を残していますが、
(間違っていたらごめんなさい。意味的には画が欲しいなら蕭白へ求めに来い、絵図なら応挙へ行けという事なんですが
この言葉は応挙への写生批判もあると思いますが
文人画的に考えるなら画は自分の心に思い描いた風景を写すもの
でも応挙は心で描いたモノを写すのですが、眼で見て写したモノ、
それは蕭白には心を写す画ではない確かに応挙にはそのせいでパーツは巧いけど全体的な絵となると纏まりが悪い絵もあるので、
結構当たってると思います。
その代わり応挙は揃った時は素晴らしい作品を作りますが
逆に蕭白はパーツ、パーツはエグくてバラバラの場合があったり
変だけど、変さで統一されてる。
でも本当は曽我蕭白は自分がこんなにも真面目に描いてるのに、
何故世間的に評価されんのだ、というのが本音じゃないでしょうか
もっとワシに視線向けよ、興味持てよと言うことで
(蕭白が曽我派を名乗ったり皇帝の末裔だといったのもハクをつけて対抗するためじゃないでしょうか。とりあえず理由はなんでもいいから世間の注目集めるために、)
なんぼのもんぢゃと言いつつも応挙の才能を認め、
応挙、円山派勢力に対抗するためには普通に描くのでは対抗できんということで注目あびるために虚言を吐き、
真面目に絵を上手になろうと描いて描いて描きまくり
その結果エグくなったんじゃないでしょうか?
蕭白は応挙に対抗するためにも、応挙の影響から身を守るためにも
個人的な意見ですが応挙も真面目な画家だと思うので
同じフィールドでは絶対に勝負できないと言うことで
自分の真面目さを捻じ曲げて蕭白のエグイのを作り上げたんではないでしょうか?
エグイのもエグイと言えばエグイだけですがでも言い方を変えれば個性とも言えますから。
あと蕭白は南紀の方で絵を描いていますが、これも何か画のエグサと関係あるのではと思います。
応挙の弟子の個性的な長沢芦雪も南紀の方へ行ってるので、
私これは何か偶然だとは思えないんですよ。
ただ私は芦雪の方が上で巧いと思いますが
芦雪もエグイ絵描くし、芦雪の変わったエピソードを思い出すと
この人も自分の事を尊敬しつつも応挙より巧いと思ってた人だと思うので、上品な応挙や呉春には私の絵は真似出来ないだろうと物語ってるので、何かそういう精神的繋がりがあったのではと思います
仮に両者にそういう繋がりがなくても
南紀と言う気候がそうさしたか、
(南紀の方は気候的に温暖ですから、陽気な気分になったとか
南紀の地形的な影響など)
若しくは依頼主の南紀の人の絵の好みなのか、
判りませんが何か南紀と関係してると思います。
ということで以上稚文長文で失礼しました。

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