京都国立博物館へ観に行ってきたんですが、
当初若冲ということであまり期待はしてなかったんですが
好き好みは別として巧いのは巧いですね。
最近観た中では一番かと(応挙の雲龍は除いて)
どこぞの大学生が卒業制作で作ったモノや
欲ボケたじいさんの絵ではない何かがありました。
まず絵の完成度が高いし(暑苦しいですが)絵に厚味があるし、絵の具の色も綺麗だし趣味じゃありませんが、久しぶりに気分的に納得出来た展示会でした。
繋ぎの展示会としては上々(もう当分は若冲は結構という気分です
。胸焼けした感じが昨年の泉屋博古館で中国絵画のコレクションを観た時と同じく)ただ私の好み的には若冲は好きじゃないんですよね。
今日じくっくりみて観て改めて思いましたが
あの鶏の形が嫌ですね。特にしっぽがどこか俵屋宗達も様な匂いがする所が鶏の胴体、顔などでは絶対そんな事しないのに多分たらしこみで描いてるんだと思いますが、何故尻尾が宗達を彷彿とさせるのか、
この尻尾との組み合わせがなんか中途半端で嫌。
力強さと柔らかさの混ぜ具合が
余談ですが若冲の描く鶏はどこか八大山人っぽいですね。鳥の描き方など。若冲の鶏の描き方は部分的にですが八大山人の鶉を描いた絵と
非常に似てると思うのですが、どこかで影響あったのでしょうか。
それとも私の気のせいでしょうか。
あと植物の枝と言ったらよいのか茎と言ったらいいのか
判りませんが植物を描いてる線がへにょっとしてて嫌。
どうしてそこで枝なり茎を曲げるのか、また曲げ方がいやらしい。
なんか観てるともっとシャキンと描けんのかと思う。
絶対技術は持ってると思うのですが、
やはり感覚的に合いませんね。若冲は
私はエグイのを追求するなら若冲より曾我蕭白の方が好きだし
(若しくは大西酔月)
毒くらわば、皿までという事で
絵的には芦雪の方が好きですね。
話がちとズレますが、芦雪、若冲、蕭白はどれもエグイ絵を描きますが
芦雪だけ質が思うのは私だけでしょうか?
若冲、蕭白、八大山人などは狂ってると言いましょうか、
ただ面白いという視点から描いてるんではなく、
本人の心の現われといいましょうか、そういうモノが絵に反映されると思いますが、蕭白なら応挙に対する自分の負けが判ってるけどどうしても捨て去れないライバル意識、恨みや羨望など
八大山人なら滅んだ故国への哀愁と非漢民族が支配者の清国への恨みとか、でも芦雪はそういうのが無いと私は感じるんですよ。
自信家だととは思いますが
彼の場合は画家としての着目点が面白若しくは眼が普通の人と違うと言いましょうか、彼が観た面白い視線がただ物凄くヘンと言っちゃあ
マズイですが変わってるだけなのではないでしょうか?
若冲、蕭白は元からあんまり売り絵を描いてませんよね。
確か若冲は60才を超えるぐらいまでは、
蕭白は描いてるのかもしれませんが、
近年ここ50年ほどは評価が高いですが、
それ以前は非常に値段の安い画家だったので、
若冲、蕭白は商業的要素が必要じゃなかったので、
本人の地がそのまま表れてると思うのですが
それに引替え芦雪は円山派で売り絵を描かなくてはいけなくて
当時の応挙の弟子などライバル(応挙自身、応瑞、呉春、松村景文その他狩野派大阪画壇など)との差別化する必要があったので、
面白い視線で描く必要があったのではと私などは思うのですが
芦雪はヘンだけど彼の残ってるエピソードや応挙に3度破門されてる事を考えるとでも蕭白や若冲の様なモノを感じない。何故なのか考えてみたんですがそれはやはり本人の眼の面白さなんだとだと思います。
例えば北斎もエグイ派手な肉筆画を残してますが、
蕭白、芦雪の様なモノを感じません。
それは絵に対する気持ちではなく眼の面白さがそうさしているのだと考えます。北斎の眼の面白さを知ろうと思うなら
北斎の絵手本なんかを観ると良いですが、何故あそこまで図形を組み合わせたように絵を観れるのか不思議に思うはずです。
芦雪もそれと部類のモノだと私は思います。
それと芦雪は円山派ですが、呉春の系列とはまったく異質なモノだとも感じますね。
前に書いた思いますが、応挙は年若く死んでるので、絵が枯れてないじゃないですか。60ちょいだったと思います。
ですので常に新しいモノを取り入れ、新しいモノを創造したいという感じが強く、芦雪はこの応挙の常に新しいモノを作りたいという部分を強く引き継いだ画家で、それプラス応挙よりも巧いという自信もあったと思います。絵を観てると、構図では応挙に筆では呉春にどや真似んできんやろと物語ってると思うので
この辺は蕭白と通じる部分があると私は思います。
一方の呉春は応挙の新しい絵を作りたいという部分を枯らした、排除した画家ではないでしょうか。
応挙の絵は前記したように枯れてないので、絵が結構エグかったり、絵全体として観たら巧いんだけど
なんかちょっとイマイチじゃないのというのがあったり、洗練されたモノとは逆の過剰な部分があるので
そういうモノを除けて、上品にあっさり纏めたのが呉春ではないかと
応挙のそういう過剰な部分は人に教え難いし、また呉春自身無理だったのでこの無理は技術的どうこうもあると思いますが、
やはり呉春のもう一人の師匠与謝蕪村なんかの影響で
エグさを追求する絵など考えられないと思うので、エグさを追求すると絵が重くなりますから画風的に合わないので、
また呉春自身絵が真面目ですから、崩せないと思いますね。
崩してても、それは本人自らが作為的に望んで崩してるのではなく、
そういう風に描けと依頼が来たか、呉春の眼にそういう風に見えただけで、芦雪の様に過剰サービスしたろかと言う。こういう風に見せたいのだという意図や精神では無いと思います。
若しかしたら今日の日記、芦雪は円山派と言う事で贔屓目があるかもしれませんが、でも今日の展覧会を観てふと思ったことでした。
何故か若冲から芦雪へ芦雪から呉春へ話が逸れましたが
ご愛嬌と言う事で
本日の一言 今若冲のしゃれこうべの作品がクリスティーズで売りに出されてますが、本物か贋作かは別としていい値段してますね。
当初若冲ということであまり期待はしてなかったんですが
好き好みは別として巧いのは巧いですね。
最近観た中では一番かと(応挙の雲龍は除いて)
どこぞの大学生が卒業制作で作ったモノや
欲ボケたじいさんの絵ではない何かがありました。
まず絵の完成度が高いし(暑苦しいですが)絵に厚味があるし、絵の具の色も綺麗だし趣味じゃありませんが、久しぶりに気分的に納得出来た展示会でした。
繋ぎの展示会としては上々(もう当分は若冲は結構という気分です
。胸焼けした感じが昨年の泉屋博古館で中国絵画のコレクションを観た時と同じく)ただ私の好み的には若冲は好きじゃないんですよね。
今日じくっくりみて観て改めて思いましたが
あの鶏の形が嫌ですね。特にしっぽがどこか俵屋宗達も様な匂いがする所が鶏の胴体、顔などでは絶対そんな事しないのに多分たらしこみで描いてるんだと思いますが、何故尻尾が宗達を彷彿とさせるのか、
この尻尾との組み合わせがなんか中途半端で嫌。
力強さと柔らかさの混ぜ具合が
余談ですが若冲の描く鶏はどこか八大山人っぽいですね。鳥の描き方など。若冲の鶏の描き方は部分的にですが八大山人の鶉を描いた絵と
非常に似てると思うのですが、どこかで影響あったのでしょうか。
それとも私の気のせいでしょうか。
あと植物の枝と言ったらよいのか茎と言ったらいいのか
判りませんが植物を描いてる線がへにょっとしてて嫌。
どうしてそこで枝なり茎を曲げるのか、また曲げ方がいやらしい。
なんか観てるともっとシャキンと描けんのかと思う。
絶対技術は持ってると思うのですが、
やはり感覚的に合いませんね。若冲は
私はエグイのを追求するなら若冲より曾我蕭白の方が好きだし
(若しくは大西酔月)
毒くらわば、皿までという事で
絵的には芦雪の方が好きですね。
話がちとズレますが、芦雪、若冲、蕭白はどれもエグイ絵を描きますが
芦雪だけ質が思うのは私だけでしょうか?
若冲、蕭白、八大山人などは狂ってると言いましょうか、
ただ面白いという視点から描いてるんではなく、
本人の心の現われといいましょうか、そういうモノが絵に反映されると思いますが、蕭白なら応挙に対する自分の負けが判ってるけどどうしても捨て去れないライバル意識、恨みや羨望など
八大山人なら滅んだ故国への哀愁と非漢民族が支配者の清国への恨みとか、でも芦雪はそういうのが無いと私は感じるんですよ。
自信家だととは思いますが
彼の場合は画家としての着目点が面白若しくは眼が普通の人と違うと言いましょうか、彼が観た面白い視線がただ物凄くヘンと言っちゃあ
マズイですが変わってるだけなのではないでしょうか?
若冲、蕭白は元からあんまり売り絵を描いてませんよね。
確か若冲は60才を超えるぐらいまでは、
蕭白は描いてるのかもしれませんが、
近年ここ50年ほどは評価が高いですが、
それ以前は非常に値段の安い画家だったので、
若冲、蕭白は商業的要素が必要じゃなかったので、
本人の地がそのまま表れてると思うのですが
それに引替え芦雪は円山派で売り絵を描かなくてはいけなくて
当時の応挙の弟子などライバル(応挙自身、応瑞、呉春、松村景文その他狩野派大阪画壇など)との差別化する必要があったので、
面白い視線で描く必要があったのではと私などは思うのですが
芦雪はヘンだけど彼の残ってるエピソードや応挙に3度破門されてる事を考えるとでも蕭白や若冲の様なモノを感じない。何故なのか考えてみたんですがそれはやはり本人の眼の面白さなんだとだと思います。
例えば北斎もエグイ派手な肉筆画を残してますが、
蕭白、芦雪の様なモノを感じません。
それは絵に対する気持ちではなく眼の面白さがそうさしているのだと考えます。北斎の眼の面白さを知ろうと思うなら
北斎の絵手本なんかを観ると良いですが、何故あそこまで図形を組み合わせたように絵を観れるのか不思議に思うはずです。
芦雪もそれと部類のモノだと私は思います。
それと芦雪は円山派ですが、呉春の系列とはまったく異質なモノだとも感じますね。
前に書いた思いますが、応挙は年若く死んでるので、絵が枯れてないじゃないですか。60ちょいだったと思います。
ですので常に新しいモノを取り入れ、新しいモノを創造したいという感じが強く、芦雪はこの応挙の常に新しいモノを作りたいという部分を強く引き継いだ画家で、それプラス応挙よりも巧いという自信もあったと思います。絵を観てると、構図では応挙に筆では呉春にどや真似んできんやろと物語ってると思うので
この辺は蕭白と通じる部分があると私は思います。
一方の呉春は応挙の新しい絵を作りたいという部分を枯らした、排除した画家ではないでしょうか。
応挙の絵は前記したように枯れてないので、絵が結構エグかったり、絵全体として観たら巧いんだけど
なんかちょっとイマイチじゃないのというのがあったり、洗練されたモノとは逆の過剰な部分があるので
そういうモノを除けて、上品にあっさり纏めたのが呉春ではないかと
応挙のそういう過剰な部分は人に教え難いし、また呉春自身無理だったのでこの無理は技術的どうこうもあると思いますが、
やはり呉春のもう一人の師匠与謝蕪村なんかの影響で
エグさを追求する絵など考えられないと思うので、エグさを追求すると絵が重くなりますから画風的に合わないので、
また呉春自身絵が真面目ですから、崩せないと思いますね。
崩してても、それは本人自らが作為的に望んで崩してるのではなく、
そういう風に描けと依頼が来たか、呉春の眼にそういう風に見えただけで、芦雪の様に過剰サービスしたろかと言う。こういう風に見せたいのだという意図や精神では無いと思います。
若しかしたら今日の日記、芦雪は円山派と言う事で贔屓目があるかもしれませんが、でも今日の展覧会を観てふと思ったことでした。
何故か若冲から芦雪へ芦雪から呉春へ話が逸れましたが
ご愛嬌と言う事で
本日の一言 今若冲のしゃれこうべの作品がクリスティーズで売りに出されてますが、本物か贋作かは別としていい値段してますね。
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